「受検期来る、壮丁者諸君の覚悟如何」
今では、この檄文を見て判る人は少ないかもしれない。これは戦前の徴兵検査を受ける青年に与えられた激励文で、大正二年五月十九日付け「牟婁新報」一面トップに掲載された田辺町の一住民の論文である。

今から七十年前の随分古くさい文章なので、今日の世相とは相容れないのは当然だが、この時代の徴兵検査のようすや当時の情勢をよく表しているので、その概要を転載してみる。

諸君は活気に満ちたる青年である。男の中の男とは諸君の如き年頃を言ふのである。 一度奮起せば山をも抜き、海をも覆へさん活気横溢の時代は今である。諸君は今や、近く徴兵検査を受くべき絶好の機会を迎へているのである。

それ兵役は日本男子の大名誉である。若し国家兵力なくんば国民一日たりとも高枕安臥する能わざるのみか、忽ち敵国の襲来をうけ我が同胞は奴隷的待遇を受けねばならぬ。

されば諸君、諸君は今その兵役の第一歩の徴兵検査を受けるのであるが、受検には極めて慎重を期し公正正直に受けねばならない。然るに昨年は忌まわしい徴兵忌避沙汰が現れたるは何たる情けない事か。予輩は実に切歯憤激の至りに耐えぬ。

されば諸君、いやしくも壮丁受検者となって試験場に立つ以上その言動は公明正大でなければならぬ。寸分も自己の良心を欺く様な事があってはならぬ。あの軍医が多少軍権を笠に着て少々の過ちを大喝叱咤する事があろうとも諸君は此れが為自己の良心を欺いてはならない。

要するに壮丁諸君は受検場に臨む前日より心身を休め、沈毅の態度を持し試験場に臨んでは周章狼狽する事なく、検査官の間う事にはよく判じ別段噛みつきもしないから正は正、邪は邪、正直に答へればよい。

換言すれば国民一般平時常時を通じての観念である。その観念あればたとえそれが不合格であったとしても決して落胆するに及ばず、何も軍人になった者ばかりが陛下に尽くすのではない。各人各様その職場にて努力するのも之れ陛下に尽くすのである。

あえて所感を記して諸君の参考に供する次第で失敬の点あれば御了承を乞ふ。

以上の通りであるが「上御一人のために」という考え方や、国防という名のもと、徴兵制度によって我々の父や祖父が兵隊にとられた、あのもの悲しい思い出が、よその国のことのように思われる檄文である。

その徴兵検査もなくなって久しい。再び、こんな非人間的な制度が復活することがなく、昔の語り草で終わることを願う。
今日の人が聞いたら寒気がするような言葉かも知れないが、戦前の満二十歳以上の若者にとって、避けられない関門がこの徴兵検査であった。徴兵検査は、明治五年十一月二十八日の徴兵令施行以来、国民の三大義務の一つとして始まったのである。

私は明治の徴兵検査については語れないが、大正・昭和のそれについて書き残して置きたいと思う。
日清・日露の両戦争に勝ちを収めた勢いもあって、大正の平和な時代でも軍部の権力は絶大であった。徴兵検査は連隊区司令部から検査官や軍医がやってきて実施するのだが、これに加えて各郡の郡役所や町村役場からも係員が派遣されるので、地域的にも大きな公的行事の一つになっていた。

◎ 壮丁者名簿の提出
各役場では毎年三月一日までに、その年の徴兵検査の該当者(数え年二十一歳の者で、生まれ年の十二月一日までに生まれた者。十二月二日以後の出生者は翌年回しとなる)を調査して連隊司令部へ報告しなければならない。

検査は原則として本籍地で受けるのだが、職場や住まいの関係で寄留先で受けることもできる。ただし二月までに戸主は関係役場へ届け出ておかなければならない。

◎ 壮丁者名簿の記入事項
これには①氏名 ②生年月日 ③戸主との続柄 ④本籍地 ⑤現住所 ⑥学歴 ⑦職業 ⑧特技 ⑨賞罰 ⑩その他、本人の秘匿事項や性質まで書かれていた。

話によると、明治の末頃、兵事係が湯崎のA青年の性格が「粗野である」と書いたのを、後になって当人が知り、本人が役場へ怒鳴りこんできたので、兵事係が大弱りしたという一幕もあったらしい。

◎ 徴兵忌避と延期願い
各地の役場では該当者の洩れがないか調査は厳重であったが、この検査の届け出は、原則として戸主と本人ということになっていて、これを怠ると三円から三十円までの罰金を科せられる厳しいものであった。  しかしその反面、少しばかり情のある措置もとられていた。それは、壮丁者が入営することによって、暮らしを支えることが出来ない家庭には、本人と市町村長名で「徴兵延期願い」を出すこともできるという規定があったことである。

◎ 徴兵検査の時期
司令部では各町村から提出された壮丁者名簿によって徴兵検査の計画書を作成することになる。
検査は毎年四月から五月にかけて行われたが、検査官が日高郡からやって来た場合は田辺町の郡役所議事堂で五日間、串本町小学校講堂で一日。東牟婁郡からやってきたときは、その反対の日程で実施することに大体決まっていた。

大正十五年郡役所が廃止されてから、私達が受験した昭和十二年頃までは田辺中学校講堂が試験場に使われていたのである。

◎ 検査前の準備
徴兵検査は普通の身体検査とちがって、軍隊教育の一環として位置づけられていたので非常に厳しく、受験者の態度や言動はきびきびしたものでなければならないと、前々から聞かされていた。

「誰々は怒鳴られたんや」とか「誰々は遅うまでひっぱられたんや」というような噂をたびたび聞いていたので、なんとなく恐ろしいような気がしていた。特に性病などを患っていようものなら、大声で叱られ、非国民扱いされるというので、性病に罹った若者は大慌てで治療に通ったものである。

検査の日が近付くと、よその土地へ働きに行っていた者も、何をおいても帰らなければならない。受検する壮丁が、みんな揃ったところで、在郷軍人会は彼らを集め、検査についての注意や要領を教えていた。

役場からは「徴兵検査心得」というパンフレットをくれた。それには、

① 頭髪を短く刈っておくこと
② 耳の穴を清潔にしておくこと
③ 褌は新しいものを付けていくこと
④ 前日は入浴しておくこと
⑤ 検査場では眼鏡をはずすこと
⑥ 当日は酒を飲んで行ってはいけない
⑦ 控室では歌を唄ったり煙草をすったりしてはいけない

などを、細目にわたって記載されていた。


◎ いよいよ検査の日
私達の検査は昭和十二年五月某日であった。朝早く役場へ集合して、宮崎兵事係と在郷軍人会の岩城さんに連れられ、巡航船で田辺へ渡った。検査会場の田辺中学校に着くと、もうすでに他町村の壮丁たちが大勢集まっていた。そして、いよいよ八時から検査が開始された。

はじめは恐ろしさで緊張がとれなかったが、身長・体重・胸囲と検査が進むにつれ、次第に気分がほぐれてきた。
しかし、囲われた場所で行われる性病検査のときは、やはり緊張した。チンポコを見せると、手でギュウと握って、強くしごかれるのである。童貞だった私には性病など無関係であったが、それでもこの検査を終わるまでは心配でたまらず、終わってホッとしたものだ。

これが終わると今度は肛門検査がある。「痔」の有無を調べるのであろう。軍医に尻を向けて四つん這いになり、肛門を検査してもらった。やっとすべての検査が終わって、最後に偉い検査官(多分陸軍少佐であったと思う)から「甲種合格」の判定を受けたときは、さすがに喜びがこみあげてきた。

私のように、これという欠陥なしにパスする者はよかったが、目や耳の疾患をもつ者は、「お前、徴兵忌避とちがうのか」と疑われ、簡単には検査が済まないようであった。

某青年が仕事中の事故で右手親指を失っているのを見て「徴兵忌避」ではないかと疑われ、徹底的に調べられたというし、大正時代に、林という若者が、目が悪かったというだけで、一番最後まで残されたという話も聞いた。

ある年の検査では、ひ弱な体質の秀才青年が、少し胸囲が狭かったのが原因で、大勢の受検者の前へ引き出され「こんな胸幅の細い男はお国の役に立たん――。もっと鍛練して頑丈な体にしておけ!」と叱りつけられたという。

幸いにも、私達の受検したときは、幸い全員無事に終わり会場を出ることができた。外には写真屋が待ちかまえていて、皆で記念写真を撮してもらった。これは毎年の習慣的行事だったようである。

大正時代の新聞を見ると、当時の「池田写真店」や「武田写真店」が徴兵検査の壮丁者には大割引致しますと、大きな広告を出していた。


◎ 徴兵検査を無事に終えて
徴兵検査が終わると、われわれは天下晴れて一人前の大人である。徴兵検査は、今日の成人式に相当するものだろう。

当時は若者の年令を判断するのに、「あの人、まだ検査前やとォ」と言ったり「あの人、検査もう済んでいるんやでェ」
という風に、検査を境にして一人前、半人前の尺度としていたようだ。その一人前に自分も仲間入りすることが出来たのである。

子供の時分から「兵隊さん」というと、岩城徳松さんや三木佐助さんのように、普通の人より偉いんだと思っていたが、その兵隊に自分もなれるんだと思うと誇らしい気持ちになってきた。

検査を終わって帰るとき、巡航船の中で田野清君から「今晩、かき舟へ集まって合格祝賀会をやろうではないか」と誘いがあり、むろん承知した。

午後七時に会場へ行くと、十五、六人の同級生たちが集まっていた。小学校卒業以来、初めての寄合いで次から次へと話は尽きない。小学校時代の思い出や恩師の消息、「彼女」の話しや入営する人への激励など。 話が戦争のことに及ぶと、日露戦争や満州事変の勝ち戦さの勇ましい言葉ばかり飛び交った。

よもやそれから一カ月後に支那事変が始まり、乙種・丙種の区別なく全員が出征するハメになろうとは誰が想像したであろうか――。