『忠魂碑の建立』これも町史には載らない出来事でしょう。
これは、昭和の初期のことではありますが、当時としては村を挙げての大きな事業だったので、後世に書き残しておかなければならないと思います。そこで、忠魂碑とはどんなものであったか、その概要を述べておきましょう。

徳川時代から明治時代へと世の中が移り変わり、鎖国から開国へと外交政策の転換を迫られた日本が、世界の列強と肩を並べていくためには、富国強兵の道を辿らざるを得ず、やがて徴兵制度がしかれるようになったということは、ご存じの通りであります。そして、ついに日清、日露戦争が始まり、これに勝利を収めはしたが、大勢の戦死、戦傷者を出すことになってしまいました。これら戦没者の霊を慰め、国民の士気を鼓舞するため、各地の市町村では、次々と忠魂碑の建立が始まったのです。 白浜町でも戦死者の多かった旧東富田村や北富田村では日露戦争の後で建立されましたが、戦死者が比較的少なかった他の地区では、長い間忠魂碑はありませんでした。(旧西富田村では昭和十二年に、旧南富田村では昭和十九年に建立されました。)

瀬戸鉛山村の忠魂碑建立の経過については、昭和五十六年七月十七日忠魂碑建立五十周年記念座談会の席上で、元白浜町長の宮崎伊佐朗さん(当時は村の兵事係であった)が詳しく話されたので、これを記録させてもらいます。

大正九年十一月、当時の在郷軍人会(分会長、三瀬邦三)で忠魂碑建立の件を提案されましたが、そのときは機至らず、立ち消えになったそうです。ところが昭和六年九月 満州事変が勃発し、大勢の将兵が満州へ出兵するにようになり、その年の十二月、熊野三所神社で村民挙げて「出征兵士の武運長久祈願祭」が開催されました。この式典が終わった後、各種団体の長が集まって忠魂碑建立を提案協議したところ、満場一致で採決されました。

翌昭和七年一月、村役場で軍人会(三木佐助会長)と村当局の間で、

一、早急に工事に着手し五月の招魂祭に間に合うように完成する。

二、費用は村が一〇〇円、軍人会が一〇〇円、残りの三〇〇円は寄付金でまかなう。――ということが決定されました。

このような時代背景の中で、二月一七日、西地の田芝庄兵衛君に村で初めての召集礼状が届き、村は緊張感に包まれました。戦時気分が一挙に盛りあがったのです。

彼の壮行会は綱不知(東白浜)で行われましたが、実に盛大なものでした。壮行会の後は玉姫丸を借り切って、大勢で南部の港まで送って行きました。(当時はまだ田辺、白浜まで鉄道が開通していなかった)

こんな情勢でしたので村民の盛り上がりは頂点に達し、寄付金を募るには非常にタイミングがよく、またたく間に予定の金額が集まったように思います。

忠魂碑建立の場所は「白島」の掘り割りで、南常三郎氏の土地(現在の御幸通り民宿五幸)を借り受けることになりました。施工は古田組(当時は村でただ一つの請負業者であった)が請け負い、碑石は三木分会長が栗栖川方面まで探しに行きました。

幸いなことに日置川分会の斡旋で、日置川河口に碑石にはうってつけの石があることが分かりました。その石は徳川中期に由井正雪が大阪から船で江戸へ運ぶ途中、船が難破して海中に没したものだそうです。

この石を二つに割り「井戸市ちゃん」の船で苦労して綱不知の港まで運び、そこから土木業者の岡田組がコロで転がしながら建立地まで運びました。題字は先年天皇陛下行幸の砌、ついて来られた侍従長の奈良武次陸軍大将に浦村長が依頼して
揮毫してもらいました。石工は川辺弥一郎さんが田辺から連れてきました。仕上げには軍人会総出で三段壁の小島から梶原まで黒い玉石を拾いに行ったものでした。こうして立派に竣工し昭和七年五月五日、盛大に竣工式と招魂式が行われました。

建立について苦労された役員氏名は次の通りです。

《瀬戸鉛山村在郷軍人分会》
分会長     三木 佐助
副分会長    川辺弥一郎
監  事    真鍋千次郎
理  事    宮崎伊佐朗
江津良組長   田井善兵衛・田井勇一郎
西地組長    大津 力松・薮 竹四郎
下地組長    南 周一郎・中田 良吉
中地組長    小芝音次郎・小芝 嘉一
綱不知組長   岩城 惣八・真鍋 平蔵
鉛山組長    原  国利・三木 善夫
        福宿 貞雄・吉田 秀雄


◎ 場所の移動
このように大通りに立派な忠魂碑が出来たので子ども達は学校への通学の途中、立ちどまって敬礼して通るようになっていたのですが、場所が良すぎてだんだんバスやタクシーの通行量が多くなり、慰霊祭や祭り事があると車の通行が難しくなりました。そこで昭和十八年十二月、白浜国民学校運動場の一隅に移転しました。その日は、在郷軍人会員と駐屯部隊兵士との銃剣道試合もあって賑わいました。

そして、昭和二十年八月十五日、終戦の日を迎え各町村では進駐軍の命令だといって、忠魂碑を壊したり土中に埋めたりしたところもあったようですが、わが白浜町では白良荘に進駐軍が大勢出入りしていたのに咎められることもありませんでした。

しかしその後、小学校の校庭に忠魂碑があるのはおかしいということになり、昭和三十年に熊野三所神社の境内に移され現在に至っています。

その当時は郷友会もなく、どの団体が主体になって移転したのか分かりませんが、町の経費で賄われたのではないかと思われます。

shira9