毎年、寒い冬が過ぎて春の大潮の頃になると、磯に付いている海藻類の「口開け」が始まります。

先ず四月の大潮になると「ふのり」の口開けがあり、そして五月には「ひじき」の口開け、六月には三番目の「てんぐさ」の口開けと続きます。この口開けの日はいずれも学校が休みになりました。

その中でも二番目に口が開く「ひじき」は、保存食にもなり、良い値で売れる数少ない収入源でもあるので、瀬戸中の人達は家族ぐるみで磯へでかけたものです。

いよいよ明日は「ひじき」の口開けという日には、前夜から鎌を研いだり、弁当を作ったり「カチ篭」を直したりして用意万端を整えました。

日開けの当日は「掛け屋」のおしげ婆さんが「ひじきの口開いたで―」と大声で触れ回ってくるのを合図に、みんな一斉に海辺へ向かって出掛けるのです。本職の漁師は船を沖へ出して最も良い場所を確保しますが、舟を持たない我々は地続きの磯へでかけるのです。ひじきを刈る場所は別に決められている訳でもないのですが、毎年習慣的に決まっていたようです。

我家は毎年権現崎へ出掛けました。磯に着いて開始の合図を待っているとリーダー格の人が「お―い、刈れ!」と叫びます。それを合図にみんな一斉に刈り始めるのです。「ひじき」はなるべく根元から刈り取らないと量が増えないし、ひじきの葉や粒を落としてもいけない。鎌をもっていない者は根元から引きちぎって傍らへ積んで置きます。短時間のうちに、刈られたひじきは見る見る山のように積み上げられます。小さい子供達はこれを陸の方へ運びあげるのを手伝うのです。昼どきになると、みんな磯の上で用意してきた弁当を開いて「のんき」が始まります。子供達はこの弁当を食べるのが楽しみで来ているようなものでした。

そして、午後二時か三時頃になると潮が満ちてきて、もう刈ることが出来なくなりますので、今度は刈っておいた「ひじき」を運ばなければなりません。持ち帰った「ひじき」は家の近くのコンクリート道路や磯の上に広げて乾かします。こうして二、三日干した「ひじき」は、塩の粉を吹いてカチカチになるので、これを取り入れようとすると指先や掌に刺さって痛い思いをしなければなりません。沢山の「ひじき」を取り入れるときなど手が血だらけになることさえありました。

ひじきを干している内に雨でも降りだすと、すぐに掻き集めて濡らさぬように覆いをしなければならず、天気が回復するとまた広げて乾かすという作業の繰り返しで、出荷するまでにも大変な苦労があるのです。

こうして天日で乾燥させたひじきのうち、家で食べる分は熱湯でゆがき保存して置きますが、大部分は仲買人が買いに来るか、漁業組合が集荷して入札し、京阪神方面へ出荷していました。

この「ひじき」の日開けは、当地に春を告げる風物詩の一つでありましたが、食糧の乏しかった戦中戦後の時代には、どの家庭でも必死でひじき刈りに精を出したものでした。勿論今でも「日開け」の制度は残っていますが、食べ物の豊かになったこの頃では、ひじき刈りに出掛ける人も次第に少なくなり忘れ去られようとしています。

注 ① 昭和十一年四月の「ふのり」の口開けから、磯へ行くにも鑑札が必要になった。
注 ② ひじきの値段は、
大正七年頃 一貫匁につき二円
昭和三年頃 一貫匁につき一円十銭
昭和十七年 一貫匁につき一円七銭
昭和五十六年 一貫匁につき二千四十四円(一キロ五四五円)であった。