土地が発展するための条件は、住みよい土地であり地場産業が盛んで、公共施設や道路が整備されていることである。このような前提が備わっていてこそ人口が増え、町が栄えてゆくのだが、その意味から言うと我が下地組の生活風土は、不便な上に道路事情が悪く、冬の風当たりも強いという発展性の乏しい土地柄であった。

しかし、幸いなことに美しい自然環境にだけは恵まれていたので、明治・大正それに昭和の前半にかけて観光ルートの中枢として発展し、瀬戸部落、いや白浜の重要な位置を占めるようにさえなってきた。

私はここで、すこし昔の下地の生活環境と発展過程を振り返ってみたいと思う。

◎ 下地組の位置と地形
下地は瀬戸半島の中心部を占める位置にあるが、冬季は西風がまともに吹きつけ、北尾・浜崎両家の間の下り道は「うとの門」と呼ばれて、風当たりの強い場所の代名詞のようになっていた。それで昔からこんな歌が伝わっている。

「 下地寒いぞ高島の穴で、西の風吹きゃ、なお寒い 」
「 西地よいとこ朝日をうけて、旅の船来りゃ、なお繁昌 」
「 瀬戸の白浜、米ならよかろ、可愛い男に積ませたい 」

今でこそ浜側に立派な海岸道路が出来上がり、民家の周囲には石垣が築かれているが、以前は台風に襲われるたびに、波が家の中まで押し寄せて大きな被害を被っていた。

大正六年十月の台風では、七三〇番地の住宅の赤ん坊が、座敷から庭の隅へ流されていたという話が残っているくらいである。

◎ 下地組の交通
江戸時代から大正時代にかけて、瀬戸村の玄関口は瀬戸四丁目の江津良港であった。田辺大浜からの渡し舟が着くと、お客や荷物の積み降ろしで浜は賑わったものである。江津良の全盛期には、ここに女の子を二、三人おいた飲み屋もあったそうだ。

江津良の部落を過ぎ、細く寂しい山道を通って坂本の峠を越えると、やがて本覚寺の屋根が見えてくる。そして西地・中地の店屋や家並みの続く部落の道をたどると下地に通じ、その道はお稲荷さんを過ぎた辺りで二又に別れ、綱不知へ通じる道と湯崎へ行く道につながる。この辺から人家は途絶え、田畑を通して白良浜や湯崎の方まで見通すことが出来たのである。

◎ 下地組の民家
江戸時代から瀬戸の中心は本覚寺を中心にした中地(瀬戸二丁目)と西地(瀬戸三丁目)で、下地はその名のごとく瀬戸部落の南端にあって人家も少なかった。そんなところから紀州藩祖、徳川頼宣公から南福左衛門に下賜された『南瀬」の印鑑も、瀬戸の南限という意味にとれないこともない。(南福左衛門家は南藤四郎宅の浜側にあった)

明治四年頃までの下地は、お稲荷さん付近まで人家が続いていたが、それから先は石場・津多佐八・辻丑松・大江・真鍋三郎・浦卯三郎などの家が点在しているだけであった。そして民家のほかに宇尾喜右衛門・島利太郎・大門藤次郎・辻次郎吉・津多佐八・大江末吉氏などが所有していた田畑や牛小屋が散在していた。

当時の下地組の民家は、中地や西地に比べて草葺き屋根の家が多かったと聞いている。安政三年(一八五六年)中地の中芝金左宅から出た火事は大火となり、もしこれが下地まで燃え拡がるようなことになれば、草葺きの家が多いだけに大変なことになるぞと、必死に消火に努めた結果、中地組だけで火は消し止められたという。

このときの火事について田辺大帳には、延焼二十七戸、七十三家に及ぶと書かれている。

◎ 明治維新以後
明治六年に瀬戸と鉛山が合併して一つの村になり、お寺の一隅を借りて行政事務をとるという近代化が進められたけれど、下地組は相変わらずの貧乏部落であった。

しかし翌年の明治七年、お寺の庫裏を借用して小学校が開校され、明治八年には中地の大江孫八氏の住居を借りて瀬戸郵便局が開局されるというふうに、形ばかりではあったが村としての体裁は徐々に整って行ったのである。(大江孫七氏の家は現在の田岸家である。)

◎ 下地組発展の第一期
明治も後半期に入った三十四年、瀬戸小学校の校舎を新築することになり下地組の三段田に白羽の矢が立てられた。――現在白良荘アパートが建っている場所である。

これは下地にとっては画期的な出来事であった。小学校の概要については町史に詳述されているので省略するが、こんな鄙びた土地でも何か人の集まる施設が出来ればその土地の発展が約束されるからである。

お寺を建てれば門前町ができ、学校が建つと学園都市が出現するというような例に洩れず、田舎とはいえ下地組も小学校を中心として発展していった。子供が通学すればその父兄もやってくる。先生たちも学校に近い所へ下宿するだろう。そして学芸会や運動会ともなれば付近はいつも大勢の人で溢れるようになった。こうして学校の周囲には次第に住宅や店舗の数が増えていったのである。

◎ 瀬戸青年会館の建設
発展途次の施設としてその規模は小さかったが、大正五年、御大典記念事業として、瀬戸青年会館が新築された。徳川時代から明治にかけて全盛を誇った南福左衛門の屋敷跡(元庄)に平屋建て二十四坪の建物が資金八百円で建てられた。今から考えれば小さな集会所だったが、当時としてはお宮の回り舞台、小学校の講堂に次ぐ大集会所であった。

ここは瀬戸の青年達のたまり場であったばかりではなく、柔道・剣道の道場にもなれば講演会の会場でもあった。そして祭の前ともなれば獅子舞や笛・太鼓の練習に若い衆が集まり、娘たちも寄ってくるという具合で、それらを当て込んだわけでもなかろうが、南周吉さんの牛小屋を潰して「鍵はつの」さんが小店を出した。さらに大正十五年十一月には、この近くに瀬戸で初めての床熊という床屋まで出来たのである。

◎ 小竹岩楠氏の白良浜土地建物会社の建設
大正八年、御坊町の小竹氏の白浜進出は白浜温泉開発の基礎を造った。そして、それが周辺の発展を促して隣接地の下地地区にも店舗・住宅が急増したのである。

◎ 昭和天皇の行幸
忘れもしない昭和四年六月一日、この草深い瀬戸鉛山村に天皇陛下の行幸を仰いだのは破天荒の出来事であった。このとき私は小学校の六年生であった。当時は東白浜の桟橋から寺谷川まではバス道路があったが、丸公園から臨海までの道路はまだ出来ていなかった。

陛下をお迎えするに当たって、丸公園から臨海までの道路を新設することになったが、松の湯までは田畑で問題がなかったものの、その北側の宇尾三蔵・谷豊吉両氏の家は「行幸道路」という大義名分のもとに、かなり削り取られてしまったのである。この丸公園から松の湯までの道は、その後も拡幅されたことがあったが、最終的には昭和五十五年四月に二車線の道路として生まれ変わり、現在に至っている。

この道が車で通れるようになったお陰で、臨海へ行くにも湯崎方面へ向かうにも大変便利になって、丸公園の近くには白良荘や錦城舘などの大きな旅館が立ち並ぶようになった。

昭和十三年には現在の芝田釣具店のあるところに白浜商業組合、その南側には関西配電白浜出張所や白浜米穀配給所など、公共的な建物が並ぶようになり、熊野三所神社の参道としも使われた。道路こそは都市発展の動脈であることがここでも立証されている。
shira19