人が生活する上で欠かせないのが飲み水の問題でありましょう。昔の飲み水は、川の近い所は川の水に、それ以外の土地では雨水か井戸水に頼る外はありませんでした。富田川から白浜まで水を引いて来るというようことは夢物語りでしかなかったのです。その点、瀬戸や江津良地区は井戸水に不自由したといぅ話しを聞いたことがありませんでした。

私達の子供の頃は、毎朝釜部屋(炊事場)を覗いて、水がめに水があるかどうか確かめるのが役目で、水が少なくなっていれば、学校へ行く前か、学校から帰ってから丼戸水を汲んできて、水がめを一杯にしておくのが日課の一つになっていました。

水汲みは大きな水桶(にない)を天秤棒(おこ)で担って大江平助さん宅の裏にあった井戸へ汲みに行きます。井戸端には共同で使う釣瓶がおいてありました。たいてい、釣瓶の紐はしゅろ綱でしたが、ここの井戸は浅いので、桶に竹ざおを、じかに取り付けたのを使いました。

下地(瀬戸一丁目)の人の飲水は、この『清水井戸』か、少し離れた保富家の屋敷にある『紺屋井戸』のどちらかを利用していましたが、瀬戸青年会館付近の家では中地(瀬戸二丁目)の『芝井戸』へ汲みに行くこともありました。井戸水は私たちの生活になくてはならないものでしたから、地区の住民たちも、これらの井戸をとても大切にしていました。

毎年、八月十五日頃には「井戸替え」という年中行事が行われました。各家庭から一人ずつ奉仕作業に出て、井戸替えの仕事に参加します。

井戸水を浚えたり、井戸の縁や内壁を竹の「さらさ」でこすって水垢を取り除いたり、そして最後に、井戸の底に敷いてあるバラス(砂利)を新しいものと取り替える、いわば井戸の大掃除です。

この井戸替えが終わると、井戸の上に竹の簀を置いて榊やお神酒を供え、水の神に感謝するのです。その後は、みんなでスルメを肴にちょっとした酒盛りが始まるのですが、このような素朴なしきたりの中にこそ、人々が天地にたいして感謝する心と、祖先から伝わる共有財産を、自分たちで守り継いでゆくという伝統が、自然に養われてきたのではないかと思います。

下地は地の利がよく、地下を二、三メートルも掘ると岩盤に突き当たり、周囲の砂地からはきれいな清水が涌きだしますので、『清水井戸』や『紺屋井戸』のような共有井戸の外に、個人もちの井戸もありました。私の知っている範囲では、大江定男、南寿平治、中田良吉、大江平助、真鍋栄一、宇尾梅治、旧役場の跡、などにもあったように思います。

しかし、昭和八年二月、白浜上水道株式会社が設立され、翌昭和九年四月、初めて富田川から給水が開始されましたので、どの家でも次第に水道を引くようになり、こんなのどかな丼戸端風景も、すっかり姿を消してしまいました。
shira18