明治四年断髪令が出てから、みんな頭を刈るようになったが、大正時代の子供たちはどんな様子であったのか書いてみよう。

都会の住人や上流家庭の子女は知らないが、田合では床屋は一軒もなく、それぞれ自分の家で頭を刈ったり剃ったりしたものだ。子供の頭などに金をかけるというようなことは全くなかった。

私の家では、父が大阪あたりで手動のジャッキ(バリカン)の古いのを買ってきていたので、よく母に刈ってもらったものだ。

髪の毛が伸びてくると、縁先に寝転んで亀のように首をのばして刈ってもらうのだが、今のように切れ味のよい道具ではないので、髪の毛がバリカンに挟まって毛を引っ張られ「痛い!痛い!」と言って逃げ回ったりしたものであった。

剃刀で頭を剃る場合は、素人ではちょっと危ないので、近所の手先の器用なおじさんか、女では「宇尾のみきばあさん」などに頼んで剃って貰った。このようなありさまだったので、学校で見掛ける子供たちの頭は、髪の毛がダンダラの虎刈りや、つるつるに剃りあげて青白く光る頭など色々なヘアスタィルが見られた。

頭を剃ってもらってから二、三日して短い毛が生え出す頃になると、モゾモゾと頭が痒くなってくる。その頃合いを見計らって、いたずら好きの高学年の生徒が、いきなり後ろから頭へ手拭をかぶせてパッと引っ張るのである。これをやられると小さい子供などは仰向けにドタリとひっくり返されるような事もある。

ところがこれにも都合の良いことがあるのだ。秋の運動会で紅白に別れて帽子取り競技をやるとき、髪の毛に帽子が引っ掛かって取れにくいので運動会の二、三日前になると、みんな競って頭を剃ったものである。

大正の初めごろになると、田舎でもやっと理髪店が出来はじめた。わが瀬戸鉛山村でも大正五年十一月、中地の谷口熊吉という人が大阪でミシンの修理と理髪業を習ってきて、下地の現正木直彦氏宅の横で「床熊」といぅ店を出したのが当地の散髪屋の第一号であったと聞いている。

続いて大正七年江津良の西本初枝さんが、中地のエビヤで「床初」という美人床屋を開店した。そして大正十三年には明光バスの先代小竹社長が白浜の発展を見越して、シンガポールで散髪屋をしていた坂本浅吉氏を呼び寄せ、浜通りに近代的な理髪店「ローヤル軒」を開業させた。ローヤルとはマレー語で平和を意味するらしい。

この店を営業するについては、店舗や設備のすべてを無償で坂本氏に貸与するという優遇ぶりであったらしいが、客たちの間でも、温泉で頭を洗ってくれるというのが評判になり、随分繁盛したと聞いている。

こうして白浜でも次第に散髪が普及して、子供でも頭を刈りにいくようになった。当時の散髪代は大人三十銭、子供は十銭から十五銭だったと記憶している。
shira16