私達の子供の頃、氏神さまの祭りが終わって十一月に入ると、宮ごもりという行事がありました。

それは、旧十月十日に出雲大社神迎祭があり、続いて十月十一日に神在祭があるからです。そのとき全国の神様が出雲にお集まりになります。 各地の神様がそれぞれの神社を旅立ちするので、そのお見送りをするために氏子の子供や宮総代などが神社に一晩泊まるのです。

そして一カ月程たってから今度は神様がお帰りになるので、その時も神様をお迎えするためにお宮へ泊まるのが「宮ごもり」でした。しかしこの行事も、各神社によって泊まれる所、泊まれない所があって、西牟婁郡ではやっていない神社の方が多いようでした。

わが熊野三所神社では、この行事がいつ頃から始まったのか分かりませんが、明治以前から行われていたようです。

瀬戸地区では瀬戸一丁目、二丁目、四丁目、東白浜地区の子供たちは氏神さまの方へ、そして、瀬戸三丁目の子供たちは藤九郎神社へ泊まりに行くことに決まっていました。私たち小学生は普段、みんなと一緒に寝るというようなことは、こんな宮ごもりの夜しか機会がなかったので、楽しくてしょうがありませんでした。

宮ごもりの日がくると、学校では子供たちが「おい、おまえ掛布団もって来いよ、おれ敷布団もって行くさかいな……」
というような会話が交わされます。そして夕方になると、皆それぞれ布団を担いで(ひじきとジャコの混ぜ飯)の弁当を持ってお宮へ集まるのです。

当時の社務所(昭和十五年取り壊された)は現在のような美しい建物ではなく、参道の尽きるところに平屋の建物がありました。それは南北に長く、真ん中は通り抜けられるようになっていて、その両側の部屋に泊まることが出来ました。普通は右側の大きい方の社務所が使われましたが、上座では「おいさん」たち(宮総代であったのだろう)がイロリで火を焚いて室内を暖めながら酒の爛をして、チビリチビリ飲んでいました。

下座のわれわれ子供の方は部屋一杯に布団を敷き詰め、その上に弁当を広げて、二回にも三回にも分けて食べたものです。
そして、時間を決めて、交替に太鼓をたたきながら瀬戸中を廻り、藤九郎神社へ往復するのですが、その途中、藤九郎さんに宮ごもりしている西地組と出会うと、そこで太鼓の取り合いが始まります。

初めから双方とも腕力の強い者を太鼓の周りに配置していますが、いつもこちらの方が人数が多いので、たいていは西地組の太鼓を取り上げてしまいます。すると、彼らはそれを取り返そうとして大勢の加勢を連れて来るのです。こうして、いつまでも他愛のない争いが続くのですが、それでいて、怪我をしたとか不仲になったとかいうこともなく、楽しい思い出の一つになっています。

騒ぎが終わって一寝入りしたと思ったら、もう夜が明けたと言って叩き起こされ、空になった弁当箱と布団を紐でくくって肩に担ぎ、朝もやの御幸通りを東白浜や太刀ケ谷まで、皆んな歩いて帰ったものです。

このような愛すべき風習も戦争で途絶えてしまいましたが、子供たちと神社との結びつきや、集団の中での協調性、自立心の育成などを考えると、少年期の得難い体験であったと思うのですが、それを復活させるにはまだ時期尚早のように思います。

戦後、藤九郎神社で少しの間復活したこともあったそうですが、今は行われていないように聞いています。