◎ 箱膳と食事
普通の家では一人に一膳づつの箱膳というものがありました。これは今の重箱を大きくしたようなもので、その中に各自の茶碗と箸が入れてありました。だから私の家でも両親のと子供用の箱膳が合計七つあったことになります。食事が済むと「ごちそうさま」といって茶碗や箸をそのまま箱膳の中へ納め、茶の間の片隅へ積み重ねたものでした。

朝食はもちろん「茶がゆ」です。瀬戸の茶粥は、豆茶を「茶ん袋」に入れて釜の中で煮立てます。お湯が黄色く色付いたところで洗った米を入れ、更にさつま芋をほうり込んで一緒に炊き上げます。これが、いわゆる紀州のいも粥です。今日の風流人が食べる米の茶粥とちがって、水気が多いので「茶粥のしゃぶしゃぶ」とも「鏡のような茶粥」とも言われました。

母は朝が早いので、私達が起きる頃はもうお粥を炊き終わり、裏の石垣へ釜ごと持ち出して冷ましていました。それを茶の間へ持ち込んで皆で二、三杯かきこんでから、慌てて学校へ出掛けたものでした。

昼飯と夕食はご飯でしたが、これは勿論麦飯です。麦は二割くらいしか入っていないと聞きましたが、随分色が黒かったように思います。麦入りの『ばち飯』という言葉があったくらいです。

私達は、白飯というものは祭りか正月しか食べられないものだと思っていたので、麦飯は貧乏人の食べものだとは思いませんでした。麦は、もちろん米を節約するために使われたのですが、結果的には栄養のバランスが保たれ、子供の発育や健康保持に役立ったのです。

運動会や遠足の時には弁当持ちで出掛けましたが、このときはさすがに真っ白な米のご飯でした。だから弁当といえば大変な御馳走のように感じました。当時の運動会は祭りの翌日に決まっていましたので、運動会の弁当は、祭りの御馳走の残りの巻寿司と、なんば焼という豪華版?でありました。

母は前夜、われわれが寝付いてから弁当を作りはじめるので、弁当を開くまで中身が分からず、期待に胸をふくらませたものでした。そのころの食べ物についての思い出は尽きることがありません。

◎ 麦搗き
主食の米は「たんぼ」がなかったので買っていましたが、麦は少しばかり作っていましたので、麦撥ち(ムギハチ)から始まって麦搗きまでの苦労も一通りやってきました。この麦搗きについて少し書いてみます。

麦搗きの唐臼というのは下地でも数が少なかったので、私の家では宮崎さんの唐臼を使わせてもらっていました。麦搗きは、たいてい学校から帰ってからか、日曜日に決まっていました。麦五升にみがき砂少々、それに水を加えて搗きはじめるのですが、用意は母がすべてやってくれました。いつも私が搗き役で妹がまぜ役でした。「ひとくぼ」で何回くらい搗いたのかもう覚えてはいませんが、搗いているうちに玄麦の薄皮が剥がれて白くなっていき、そして私の体も汗ばんでくるのです。とても根気と体力のいる仕事でした。なんでも、 一窪搗くのに米は三十分、麦は一時間としたものだそうです。

自分では白くなったつもりで、両手ですくって、麦と糠を吹きわけながら「もう、これでええんか――」と母のところヘ持っていきますと、「まだまだ黒い。もう百――」と叱られながら搗いたことが思い出されます。

こんな麦でも、麦撥ちからこれを日にするまでの日数とその苦労は、並たいていのものではありませんでした。今から考えると無駄な労力を費やしたものだと思われるかもしれませんが、反面、こうした労働によって、 一粒の麦でもこんなに努力と汗が必要なのだという気持ちを、子供のころから養われたと思っています。