瀬戸は昔から、二、三軒の家を除いて総体的に貧しく、城下町でよく見掛ける格子戸や門構えの立派な家は少なかった。
ここでは、ごく普通の、ありふれた家の構造について書いておきたいと思う。

民家の屋根は茅葺きが多く、大正時代に入ってからでもまだ二、三軒は残っていたようである。大正十四年に庄屋をしていた南藤四郎家を取壊したが、それが瀬戸で最後の茅葺き屋根であったと聞いている。

当時はどの家も大体同じような造りであったし、私の家も徳川末期に建てられた家なので、瀬戸部落の一般的家屋の典型だったと書き残しておこうと思う。今から思うとこの時代の住まいは、非衛生的、非文化的で、現在の住宅と比べると隔世の感がある。

◎ 便所の変遷
小使用の便所は家の入口の右側で、囲いの中にあった。――今日の便所を想像されては話が通じにくい。――便所というものは、汲み取りがし易いように、すべて家の外に設けられていた。便器といっても直径六〇センチ位の水がめを七分ばかり土間に埋めてあるだけで、開き戸などついておらず、外からでもまる見えなのだが、それでも男女共用で使われていた。

便所などという堅苦しい言葉ではなく、通称『しょんべたんご』と言っていた。そして小便が溜まってくると、十日目か半月毎に「肥たご」で汲んで畑の野菜に肥料としてやりに行くか、畑に要らないときは、畑の隅の肥溜めに蓄えておいた。

そして大便用のものは、戸口の外を左へ廻って母屋から離れた奥の方にあった。上を掘ってセメントの基礎囲いをし、その上を板で囲ってあるのだが、汲み取りに便利なように下三分の一は開けてある。入口に開き戸はついているが、電灯がないので採光のため上部が空いている。 開き戸がなくて、代わりにムシロを吊っている家も残っていたところをみると、私の家のこんな便所でも、まだよい方であったかもしれない。便所の入口には「手水鉢」が置いてあって、時々水を替えさせられたものだった。

大便をするときは『落とし藁」といって藁を三〇センチ位に切ったものを先に撤いておかないと、肥つぼの「オツリ」が尻に跳ねかえってくることもある。夜中に用を足すにはローソクを灯し、雨の日には傘をささねばならず、大変な不便さであった。

こんな便所も昭和七年、私が小学校を卒業し、大阪へ働きに行き二、三年して帰ってみると面目を一新していた。

入口の横にあった小便用の便所は床がセメント張りの物置に変身していたし、大便用の方も倉庫に改造して鍬や藁が入っていた。そして新しい便所は『納戸』の奥の壁を打ち抜いた別棟へ新設されていた。

この新しい便所は大と小が同じところで用を足せるように出来ていて、小便器は陶器製の『あさがお』になり、大使用の方は板張りになって、これも陶器の『きんかくし」つきの便器が据えられ、蓋が付いていた。汲み取り式であるのは今までと変わりはなかったが、それでも以前のことを考えると随分よくなっていた。

こんな思い出のある古い家屋も、昭和四十五年に取り壊して立て替えることになった。今度こそはと、便所は念願の水洗式にして衛生的。文化的になったが、そのとき私は小学校時代の先生に、
「その部落の文化の程度は、便所を見ればすぐに分かる」と言われた言葉をフト思い出し、非常に感慨深いものがあった。

◎ 部屋の間取り
部屋の間取りは入口に近いところから『上がり戸』その奥が『奥の間』そして上がり戸の横が『茶の間』さらに、その奥が『納戸」というのが通常のパターンで、この上がり戸や奥の間の外側に、板張りの『縁ぶち』がありました。今日では、縁というものは生活にゆとりをもたす憩いの場となっていますが、当時は、漁網や洗濯物、または荷物を置くのに使われて物置のようなありさまでした。

部屋と部屋の間は「板ぶすま」で仕切られ、茶の間はたいてい板の間でしたから、寝る部屋は四畳半の上がり戸と、六畳の奥の間と、三畳の納戸ということになりますが、今から考えると、あの狭い部屋で両親と兄弟五人がどんなにして暮らしてきたのか不思議な気がします。

電灯には簡単な笠がついていて、十六燭光か三十燭光の電球が点いています。時たま、六十燭光の電球に取り替えたときなど「なんと、明るいもんだなア」と感心したことがありました。

この電灯を真ん中の大黒柱のところヘコードを長くして取り付けて、勉強する時や、夜なべをするときは、あっちこっちへ引っ張り回して用を足したものです。

土間は家のわりには広く、その片隅に丸く平たい「キヌガサ石」を据え付けてあったので、これを台にして藁を叩き、草履や「ふんご」を作ったものです。私の家は稲作をしていなかったが、藁をあちこちから貰ってきて草履をよく作りました。
当時の小学生で靴を履いた子供はごく少なく、たいていは自分で作った草履を履いていました。

◎ 天丼
全部の天丼ではありませんが、土間と上がり戸にかけての天丼は、黒ずんでがっちりした板張りになっていて、この天丼裏が薪炭や柴を蓄えておく倉庫になっているのです。

毎年、十二月十四日になると福柴正月と言って、瀬戸の人たちは村有林のある三段壁や、梶原辺りまで福柴を刈りに行きました。子供の私たちも学校を休んで大人に連れられて出掛けました。

現地では大人のようには働けなかったが、それでも帰るときオコの両端に小さな束を作ってもらって、それを担って帰るのです。何といっても道のりがかなり遠いので、肩が痛くなって何度も何度も休みながら帰ったことが懐かしく思い出されます。そんな柴や松の割木を何年分も放りあげておくのが、この天丼の倉庫でした。

けれども昭和二十九年頃からプロパンガスが普及するに及んで、薪炭も次第に使われなくなり、天丼の倉庫も入れる物がなくなって、そのままになってしまいました。

◎ いもつぼ
大百姓は別として、普通の家ではどの家にも「いもつぼ」がありました。私たちの家でも上がり戸の床下に一坪半くらいの「いもつぼ」が作ってありました。いもつぼといっても、周囲を練り土で囲んだだけの簡単な貯蔵庫です。当時は米麦の次にさつま芋が主食なので、私たちの家でも秋の芋掘りが終わると、掘った芋をこの「いもつぼ」に入れて貯えて置くのです。

そして、十日または半月毎に小出しにして食べるのですが、そのたびに畳を上げたり、床板を剥がしたりするのが面倒な仕事でした。
shira15