昔、夜の生活に欠かせなかった照明は行燈(あんどん) であった。行燈に明かりを点けるためには火打ち石かマッチが必要であったが、明治の中頃までは、まだマッチが普及していなかったので火打ち石が使われていたという。

文明開化の波が押し寄せ、瀬戸の部落にようやく虎印マークのマッチが出回りはじめたのは、明治二十九年頃のことだと伝えられている。聞くところによると、ある船乗りが上方からマッチを買って来て、みんなに見せて回ったところ、その便利さがうけて大変評判になったらしい。

行燈はマッチ一本でも火がついたが、薪のように火の付きにくいものはマッチだけでは点火できず「付け木」が必要であった。付け木というのは、乾燥した木ぎれを薄くそいだもので、火種をこれに移してから薪を焚きつけたのである。

◎ 洋燈(ランプ)
行燈からランプに移り変わっていつたのは明治三十五年頃だったらしい。それまで使われていた行燈にくらべて、ランプは画期的な照明器具であった。明るさは三分芯、五分芯というふうに芯の太さで調整できるし、少し位の風では消えることもない。 一晩中点けておくともったいないので寝るときは消すのだが、それでも朝になるとランプのホヤは真っ黒に汚れている。それを学校へ行くまでに拭いたり水洗いするのが子供達の日課になっていた。ところが瀬戸の部落にランプが普及してきた頃には、大都市ですでに電灯が引かれはじめていたのである。

◎ 電灯の黎明期
明治四十三年二月、田辺の栗山滝蔵。加藤陽三の二人が発起人となって『田辺電灯株式会社」を設立することになり、二月十二日に中屋敷町の花屋旅館で発起人会が開かれた。会社の設立費は五万円であった。

やがて秋津川に発電所が完成し、田辺町の錦水座で華々しく「電灯開業式」が催されたのは明治四十四年三月三日のことである。

そして、これと相前後して御坊町に日高電灯株式会社。串本町には町営の発電所という具合に次々と電灯が引かれるようになったが、我が瀬戸鉛山村に電灯が点いたのはそれから五年遅れの大正四年九月のことだった。当時の記録がないのでよく判らないが、給電可能になった戸数は瀬戸地区(江津良、綱不知を除く)百六十戸と湯崎地区七十戸であったが、そのうちで電灯を引いた家は四十五戸だったらしい。その後三年遅れて大正七年九月に江津良、綱不知にも電灯が点いたのである。

ちなみに当時の電灯料金は十燭光の一灯について月六十五銭。屋内配線と器具の貸与料が一灯につき十五銭であった。

◎ 電灯の点きはじめ
各家庭の軒先に角材の腕木を取り付けて近くの電柱から電線を引き、天丼裏を経由して家の真ん中の大黒柱まで配線する。
そこから先は木綿糸で被覆した室内用のコードを長くして、その先に簡単な笠の付いたソケットが取り付けられてあった。
現在のように数多くの電灯があるわけではないので、必要に応じてコードを引っ張りながら電灯を奥の間へ持って行ったり、釜部屋へ持って行ったりしたものである。

もちろん、当時は定額灯だったので、夕方になると電気会社がスイッチを入れてくれる。すると、何もしなくても各家庭一斉に電灯が点り、そして朝が来ると灯が消えるというまことに便利なシステムになっていた。 行燈やランプのように、一々手で点けたり消したりしなくてもよいし、手入れも要らないし、何よりも明るいのが嬉しかった。

「こんだけ明るかったら、夜なべでも出来るでぇ――」と言って、最初に電灯がついた宮崎さんの家では、電灯の下で山本民治さんや陰裡の馬さんたちが、車座になって草履を作ったり縄を絢ったりしたそうだ。 しかし、良いことばかりではなかった。電球が切れたりすると白浜ではどうにもならず、新しい電球と換えてもらうには田辺の電灯会社まで渡し船で持っていって貰わなければならなかった。

昭和初期、我々の子供の頃はすでに電灯の時代になっていて、そんなに不自由はしなかったが、神棚や仏壇の灯明だけは菜種油を使っていたので灯芯や油を保富商店まで買いに行かされたものであった。

◎ 田辺電灯会社白浜出張所
大正十二年、白浜舘が営業を始めたころは、もう電灯の時代であった。白浜に電灯会社がなくて何かと不便だったところから、土地会社が白浜舘の右隣に電灯会社の出張所を建てた。ここへ最初に配属された職員が「平 一平」という青年であった。彼がここへ常駐するようになってからは電球の交換も便利になったし、電灯が故障してもすぐ直しに来てくれた。――その頃はヒューズが切れたりするトラブルが多かった――。 彼が懐中電灯を持ってやってきて、真っ暗な家の中をゴソゴソやっている内にパッと電灯がつく。さすがに電気屋さんだと感心したものだ。

この若者は色の白い柔和な顔立ちをしていて、土地の人々ともすぐに打ち解けるようになった。その上、彼はなかなかの芸達者でもあったので、瀬戸青年会の素人芝居が催されると必ず三番叟の舞いを抜露してくれたし、物まねも得意で、やんやの喝采を拍したこともあった。

このように当時の瀬戸部落の人達は、他所からやってきた人をも暖かく受け入れる寛容さがあったように思う。
ちょうど発展途上にあった白浜温泉は、その後次第に電気需要が伸び、浜通りの「三万五千石」付近に電灯会社が倉庫を建て、色々な器材が置かれるようになった。そして昭和七年には御幸通りに民間で初めての家電製品の店、辻田電気店が営業をはじめ、本格的な白浜町の電気時代が到来したのである。