明治二十二年という年は明治のちょうど真ん中にあたり、全国一斉に市町村制の敷かれた年です。わが瀬戸鉛山村でもお寺の横に役場を新築し職員二名(収入役と書記一名)で出発した記念すべき年でありました。 そしてまた、近来まれに見る大水害のあった年でもあり、更にもうひとつ、わが下地組(瀬戸一丁目)では僅か四十九軒の家から十二名の赤ん坊が生まれ、しかも、それが男の子ばかりという世にも不思議な年でもありました。

今、この十二名の足跡をたどってみることによって、世の有為転変と当時の貧しく悲しい、瀬戸の状況の一端がうかがえるかと思います。(順序は中地側より記述していきます)

① 嶋千代吉(現、嶋甚治氏宅の人で嶋竹松の五男)四年制の小学校卒業後、青雲の志を抱いてアメリカヘ渡るべく渋谷静子と結婚したが、船便の都合で相前後して渡航することになった。かの地では移民として言語に絶する苦労があったらしいが、コーヒ農園の経営に成功をおさめた。昭和五十四年二月、アメリカのオンタリオで死去。

② 南庄五郎 最後の庄屋だった南藤四郎の孫で、小学校卒業後、田辺教員養成所へ三年間通学して教員資格を取得したが、教員にはならず生涯農業に専念した。妻は島利太郎の三女「だい」である。彼は農業の傍ら寺総代や宮総代を勤めたが、昭和三十二年十二月六十八歳で他界した。遺族の長男藤四郎は五十四年死去。現在は、その子常寿が家を守っている。

③ 保富太郎三郎 保富捨松の長男で、姉妹は多いが男は一人だけというところから太郎三郎と名付けられたと聞く。昭和九年から現在地に移り住んでいるが、それまでは青年会館前で父の代から灯心、木綿生地などを商う瀬戸では珍しい商店であった。彼も小学校卒業後、大阪の呉服店へ見習いに行き、若くして番頭になった。市ノ瀬の中松静江と結婚して大阪の池田で暮らしていたが、大正十二年頃帰郷して家業に専念して隆盛にみちびいた。そのかたわら青年会や瀬戸部の会計等を受け持っていたが昭和二十三年三月五十九歳で亡くなった。遺族は妻の静江、清之助、操。

④ 南利一 南次郎吉の長男。小学校卒業後、芝田勇蔵氏の帆船に乗る。当時の若者はたいていこのような船乗りになったものである。そして利一は後に帆船を購入し兄弟で自営するようになった。その後昭和十年頃より田辺湾汽船の船長に就職し、昭和八年と十二年の二期にわたり下地組より推されて村会議員を勤めた。妻は浦漣村長の長女「あや」である。彼女は長い間産婆をしていたので、瀬戸の子供達はたいていこの人の世話になっている。昭和十七年十月より終戦まで、瀬戸一丁目の町内会長を勤めたが昭和二十三年三月五十九歳で他界した。遺族は長男南寿平治。

⑤ 薮本太平 薮本山三郎の長男で、音はかなり羽振りのきいた家柄であったらしいが、太平の生まれた当時は小さな家で、現在の正木清一氏宅の上の方にあったらしい。家が貧しく、小学校を三年位で中退して古座の帆船に「かしき」(船員の下働き)として就職した。長い間、まじめに働いたので船主に気にいられ、嫁取りの話も出ていたくらいであったが、大正元年九月。航行中の船が台風に遭遇、串本の大島沖で遭難して二十三歳の若さで死去した。その後、親方は自分の墓地に家族同様に葬ったという。彼は妻子がなく家系は途絶えた。

⑥ 浦政吉(浦源次郎の五男)小学校を卒業して、二十一才でアメリカヘ渡り大正十二年六月帰国。その後、瀬戸小学校前で白浜で初めての新聞販売所と本屋を開業した。公職としては瀬戸青年会長を手はじめに色々の役職について郷里の発展に寄与する。妻は南次郎吉の次女「りょう」を娶る。第二次大戦では一人子「尋海」が戦死した。戦後は教育委員長、瀬戸部長などを勤めた。このクラスでは最長寿者である。昭和五十六年四月、九十二才で死去。遺族は妻「りよう」竜三、恵。

⑦ 浜崎与治郎(浜崎杉松の三男)小学校卒業後、芝田勇蔵氏の帆船に乗り、若くして船長の免状を取得した。高木試験官に才能を認められ、助手として上阪を嘱望されたが断って船員を続けた。妻は石場近蔵の長女「タネ」。昭和四年白良荘の開業を契機に船員をやめ、同荘の帳場へ勤める。昭和十九年、船長の免状をもっていたので、五十五才のとき軍に召集され、広島の船舶部隊へ入隊した。終戦後、無事復員したが昭和四十一年五月、七十七才で没した。遺族は長男与一。

⑧ 南留吉 母は「おしげ」。家は現 南要太郎氏と山家はなさんの間に小さい家があったようである。この家は明治二十二年七月の豪雨によって倒壊したが、子供たちは幸いにも難を逃れ、成長してからは、よく祭りの芝居などにすすんで出演した。あるときは南藤四郎家の槍を持ち出して、熱演したこともあったと語り継がれている。遺族は不明である。

⑨ 正木久吉 明治四年、明治十五年の瀬戸台帳にも正木久吉と記載があるところをみると、祖父も久吉という名であったらしい。家は現在の中田良吉氏宅の横手に家があったが、今はなく遺族も不明である。

⑩ 薮 音吉(薮彦右衛門の次男)家はお宮の入口にあって小学校卒業後、上阪して海軍呉海兵団へ入団した。除隊後は南洋開発の社員としてサイパン島に渡り現地で妻帯したが、大東亜戦争に遭過し、昭和十九年七月同島の守備隊と共に玉砕した。五十六歳であった。遺族なし。

⑪ 石場喜平(石場近蔵の長男)小学校卒業後、漁業組合に「掛け屋」として就職する。「掛け屋」とは、当時、漁舟に漁獲があると漁業組合から出向いていって魚の目方を計ったりする役日で、波しぶきや雨にうたれる厳しい仕事であった。このため胸の病を患い、母の葬式が終わって間もなく、明治四十三年二月、母の後を追うように死去した。二十二歳であった。
妻子はなく弟の竹次郎が跡を継いでいる。

⑫ 辻平三郎(辻丑松の次男)家は南福左衛門氏の隣にあったが、現在はモータープールになっている。小学校卒業後、田辺の教員養成所へ通学していたが胸を患って若死した。妻子なく、兄松次郎の直系家族も昭和十五年三月に死去して、こちらに遺族なし。

以上十二名の方々の生きざまを見てきましたが、各人各様の人生ドラマがあり、最後はウタカタのように消えていきました。そして、明治二十二年より今年までの九十二年の間に、家系の絶えてしまった人が五人もいます。このような事から、当然のように思われている『子孫を残すこと』の難しさが、あらためて分かるような気がします。

遺族の健在な七名の方々は、これからも忌日の巡ってくる度に法要を営んでもらうこともできますが、家系の絶えた五人の方々は、みんなから忘れられ、これからも未来永劫に思い出されることはないでしょう。 私はそのような意味からも、このように誌上で追悼することが供養の一つになっていると思うのです。

現在、この瀬戸一丁目に住んでいる我々の幸せは、このような名もない多くの人々の過去の上にこそ成り立っているという事実を、忘れないようにしなければならないと思います。