◇ 大正中頃までの我が村はいかに貧しかったか……。
和歌山県は近畿地方の中央から南よりに位置する僻地であるが、我が村はその僻地の中でも更に交通不便な紀伊半島西岸の小さな部落であった。

明治六年に戸長制が敷かれ、瀬戸村の戸数二百三十二戸、人口一千五十人と、鉛山村の七十戸、人口三百十一人が合併して、戸数三百二戸、人口一千三百六十一名の村に統合された。

しかし、田畑の面積は少なく湯崎地区に温泉と鉛鉱山があるだけで、ほかに見るべき産物もなかった。このような貧しい村のありさまを大正四年一月の田辺・西牟婁郡県会議員、衆議院選挙有権者数の統計表で見てみよう。

(注 一) 当時、田辺・西牟婁郡は二町、四十一村で構成されていた。その後次第に町村合併が進んで、現在では田辺市ほか七町村に統合されている。

(注 二) 当時の有権者は満二十五歳以上の戸主であり、法律で定められた規定以上の土地所有者、または戸数割り市町村税の定額以上を納めなければ選挙権が与えられなかった。従って、それぞれの市町村の有権者数を見れば、その地域が裕福であったかなかったかがよく分かる。

(注 三) 当時、産物の運搬はほとんど車であったから、この表の車の項をみれば車の大きさや台数によって、それぞれの町村の動きが推察できる。わが村の小車三台というのは南常商店一台・瀬戸丸運送一台・その他の商店の車であろうか。

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