◎ 初めての県議選挙
民主政治の要諦は「人民のための、人民による、人民の政治」である。明治十二年から制限選挙ではあったが、県会議員選挙が始まり、同じく明治二十二年からは村会議員選挙、衆議院選挙がはじまっている。

しかし、当時は選挙といってもまだまだ金持ち階級や地主たちのもので、一般庶民には縁の遠い存在であった。私は、ここで明治三十六年の県会議員選挙の模様を古文書と当時の牟婁新報によって再録してみようと思う。

我が村では、その年の七月二十二日、大門村長から芝田勇蔵村長に代わって間もない時期に、九月三十日の投票日を迎えることになった。 一般庶民はあまりこの選挙には関心を示さなかったが、九月二十九日の任期切れが迫ってくると、政界ヘ出馬する意欲のある人や、選挙権をもつ人達にとっては一大関心事であった。

田辺町を含む西牟婁郡内の有志二十八名が、どのようにして話をまとめたのかは知らないが、選挙を無競争化させるため、候補者を定員の四名にしぼり次のような特別広告を度々牟婁新報に出している。

小切間権右衛門 (中芳養村)
大谷 七右衛門 (西富田村才野)
出 谷 栄 一 (大都河村)
坂 成 宣 成 (田並村田並)

右の四名は西牟婁郡選出県会議員候補者として推薦承諾を得たり。西牟婁郡有権者諸氏、挙げて賛成あらんことを希望する。

(西牟婁郡有志者総代)

池田 正雄・安原 権吉(潮岬村)
野田 春楊・小倉 九蔵・田中 彦平・滝浪 良蔵(岩田村)
真砂 友隆・矢倉源兵衛・藤木 八平・神田清右衛門(串本町)
宮本 和蔵・小山源五郎・久岡 武蔵・片山 省三(田辺町)
柴田 丈一・永野 定吉(西富田村)
山本 昇一・奥野健太郎・鎌田助太郎(田辺町)

我が村に県会議員候補者がいないのはやむを得ないとしても、これを推薦する人物が、郡内の有志二十八名の中にさえ加えられていないとは、瀬戸鉛山村も無視されたものである。

◎ 九月三十日の投票日
当時は候補者が定員を越えていなくても無投票とはならず、信任投票のようなかたちで各町村毎に投票が行われた。当選者があらかじめ決まっている選挙など、面白くないのは当然のことで棄権者が続出した。

田辺町では有権者は二百三十四名であったが、昼頃になっても投票数が百票に満たなかったので係員が駆け回って投票を呼びかけ、辛うじて投票数が百五十九票までこぎつけたという。瀬戸鉛山村では有権者二十二名で、投票数十五名であった。

翌日の十月一日、各市町村の投票箱が警官護衛のもとに田辺町の郡役所へ送られたが、串本や大島、周参見村の投票箱は船便で送られたので、到着するのがかなり遅くなった。そして、開票は十月二日の午前七時より、郡部長がおもむろに開始を宣言して始まったという。

△第一部 小切間に投票した

  (有権者) (投票数)
田辺 二三四人 一五九票
新庄 九〇 七七 
稲成 七二 六〇

万呂 九〇 七二
西ノ谷 五三 四一

湊村 五五 三五
瀬戸鉛山 二二 一五

(計七町村 六一七人 四五九票)


△第二部  出谷に投票した

(有権者) (投票数)
下芳養 九一 七七
下秋津 六一 五二
三栖 一三二 一〇六

中芳養 八〇 六七
上秋津 七〇 五四
長野  五七 四三

上芳養 八二 七〇
秋津川 六一 五五

(計八村 六三四人 五二四票)

△第三部  大平に投票した(投票者数省略)

西富田 五六人
朝来 六三
市ノ瀬 二六
二川 二九
三川豊原 二一

南富田 五八
生馬 二〇
鮎川 二一
近野 二三
川添 三二

北富田 五〇
岩田 一一八
栗栖川 四六
富里 三五
三舞 二九

(合 計 六二七人)


△ 第四部  坂成に投票した(投票者数省略)

東富田 六五
田並 五三

日置 五六
有田 三四
周参見 一四五
串本 一五一
江住 六〇
潮岬 八三
和深 一二七
富里 五九

(合計 十町村 七三三)

尚、この時の選挙権資格者は、満二十五歳以上の一戸を構えている男子で、地租又は三円以上の国税納付者という資格制限があった。そして、各町村の有権者数の表を見るかぎり、いかに我が瀬戸鉛山村が貧困であったかがよく分かる。
私はこの九十年前の県議選の状況を振り返ることによって、当時のわが村がどんなに貧しく、郡内の他町村から無視されてきたかを知ってもらいたいと思う。

幸いにも、今日では温泉と景勝のおかげで、県下第一の観光地として繁栄するようになったが、我々はこれに驕ってはならない。人の運命に栄枯盛衰があるごとく、我らの郷土にも、いついかなる変事が起こり、百年前の寒村に逆もどりしないと誰が言い得るだろうか。我ら先人は、このことに思いを致し、常に身を引きしめて将来の繁栄を願い、この稿を記した次第である。

shira11