先年、市ノ瀬村の中松馨さんの宅へ行ったとき、中松さんから「浜崎君、よいもの見せようか――」と言って見せてもらったのは、虫喰いの跡がある古い書類であった。それは明治十年五月、洪寛小学校(現在の白浜小学校)から、朝来村にあった郡会議所学務係宛に提出した報告書であった。この報告書から、当時の瀬戸と鉛山村の実情がよく分かるので記してみる。

(注) 一、(瀬戸小学校は明治七年開校。校名は洪寛小学校と呼んではいたが、校合はなくてお寺の庫裏を借りていた。
同じく湯崎小学校は銀砂小学校と呼んでいた)そして、その小学校の表紙には第七大区、五小区瀬戸鉛山村両小学校より「会議所限り諸届控」とあり中の一頁には瀬戸鉛山村、戸数人員学齢相当数取調表として、① 戸数二三九戸 ② 人員一、一七三人(内満六才より十四才までの学齢相当者一六六人) ③就学四十人(男三十二人、女八人) ④不就学一二六人(男四十八名、女七十八名)

(注)二、この数字は瀬戸村のみの人数で当時は女の子の不就学の多いのが眼につく。

二頁目には登校生徒の氏名年令学齢が記載されている。門野好蔵、十一歳七月・津多弁蔵、十三歳一月・芝田信之助、満十三歳・雑賀豊吉、十一歳十一月・浦亀吉、十三歳九月・浦定之助、十一歳九月・芝田喜三太、十一歳七月・南理蔵、九歳二月・津多鉄蔵、十三歳八月・岩城信之助、十三歳三月・浜栄三郎、十一歳二月・太多近蔵、九歳十月・嶋熊吉、十一歳六月・和田芳松、十一歳八月・薮重蔵、十歳八月・浦宇之助、十歳九月・津多ヤス、十歳二月・石場マス、八歳九月・西亀吉、九歳五月・芝田ちか、十歳十一月・井戸貞助、十一歳四月・嶋次郎吉、九歳十月・太多さだ、七歳十月・戎房吉、十歳二月・芝田たき、満七歳・金谷佐太郎、八歳一月・南その、八歳九月・岩城四郎吉、満八歳・芝崎捨吉、八歳七月・岩城勇久松、十歳十月・林福松、八歳八月・津多さく、九歳十月・雑賀繁松、六歳九月・真鍋せき、九歳七月・大江福松、八歳二月・津多やす、八歳二月・西脇仙太郎、満八歳・池宮政吉、七歳十一月・戎房次郎、七歳十月・薮文之助、七歳九月・の以上四十名である。

報告者は洪寛小学校の世話係、大門藤次郎と教員の真砂英造で二人の捺印がなされている。

三頁目には洪寛小学校、優等生「石場ます」銀砂小学校、優等生「川口山三郎」とあった。

(注)三、「石場ます」とあるのが、私の母「たね」の親、つまり私の祖母にあたる人である。四十二才の若さで亡くなったと聞いていたが、その祖母がそんなに勉強がよくできたのかと思うと嬉しくなってきた。それで、この書類を中松さんから借りてコピーして、石場、浜崎、田野、三瀬、などの「石場ます」の子息に供養のつもりで配ってあげた。

四頁目には銀砂小学校の生徒十九名の氏名が記載されている。

川口山三郎(増吉の三男) ・三木善之助(善右衛門の次男) ・原曽太郎・川口丑松(梶右衛門の四男)・浅井理三郎(理助の長男)・湯川栄吉(平兵衛の長男)・高田佐吉・原礼吉(文四郎の長男)・三栖勘次郎・江見寅吉・鈴木音吉・三木愛助・百合大五郎(安兵衛の次男) ・酒井起多(貞助の次女) ・原田たつ・栗栖治平(治三郎の長男) ・栗栖伊之助(治左衛門の次男) ・辻本繁吉(仁右衛門の長男) ・原与之助(文四郎の次男)以上で、報告者は銀砂小学校の世話人、湯川平兵衛・川口増吉、それに教員の三輪善了の三人で、それぞれの捺印があった。

(注)四、こんな書類が何故中松家にあるのかというと、当時、朝来村にあった会議所の学務係の長、猪野為蔵という人が、明治二十二年の大水害の時、これらの書類を市ノ瀬村の猪野さん宅へ運び出されたらしい。 その後、猪野さんが東京へ移転されることになり、分家筋の中松家で保管され現在に至っている。