明治時代の江津良(瀬戸四丁目)は瀬戸から山一つへだてた戸数三十戸あまりの小さい部落でした。そしてその中程に小さなお堂があって、堂内には「方向地蔵」という地蔵尊が祀られており、江津良地区住民の心のよりどころとなっていました。この地蔵堂に明治三十年頃、 一人の行者が住みつくようになりました。年の頃は四十過ぎでしょうか、名を武田精心といいました。

ところでこの行者は、ここにしばらく居つくのかと思うと、西国三十三カ所参りや四国八十八カ所参りに出掛け、帰ってくるとまた出て行くというように、ここをねぐらのようにしていました。

何でも、この行者は西国参り三十三回、四国参り三十四回とかの大先達で、この人について四国参りをすれば、道は詳しく割安にあがるというので、江津良の人は勿論瀬戸や富田の人々さえも、この行者さんについて四国参りした人が多かったと聞いています。こうして地元の人達との親交も深まり「行者さん、行者さん」と世話をする人が出てくるようになった頃、この行者の威力を示す一つの事件が起こりました。

それはある年の夏のことです。長く日照りが続いて農民が大変困った事がありました。幸い江津良には深い井戸があって、飲水の心配はなかったのですが、井戸水の少ない綱不知(東白浜)の人達は、江津良まで山坂越えて飲水を貰いに来たそうです。

この住民の難儀を見て、行者は江津良の山にある金比羅さんに登って一週間の「雨乞い」の祈祷を始めました。この間の食事は、水と煮物を絶って、粉を練った粗末な食べ物だけしか摂らなかったそうです。

傍らに、平素から可愛いがっていた信者の娘、中ユリ(十歳位)を寝かしつけ必死に祈る姿は、神がかり的というか鬼気迫るものがあったといいます。

その願いが天に通じたのか、あるいは偶然なのか一週間目の満願の日、大雨が降りだしたので「やっばり行者さんは偉い人や」と、行者にに対する人々の尊敬の念が一段と高まりました。

そして、この行者の残した大きな功績は、現在地蔵堂前の、集会所や広場のある地所(以前は三木勲氏の祖父、三木与平さん所有の畑地であった)を買い受けて江津良若衆組に寄付し、盆踊りや集会のための広場として使わせたことです。

行者のお陰で、広場はいま、盆踊りや集会の場所として有効に使われていますが、大正の頃には盆踊り以外には使わないので、何でも年一円位の使用料を貰って畑作りをしてもらったという時代もあったそうです。

大師講は以前からあったようですが、明治年代の大師講はこの行者を中心にしていたのは間違いありません。当時の大師講の規約や講中名簿が残っているので書いておきます。

表紙には「大師講社海上・家内安全」と題字が書いてあり、その横に明治三十四年六月吉日、和歌山県西牟婁郡瀬戸鉛山村と書いてあります。

(注 ①) 明治三十三年十二月江津良の人が始めたようですが、明治三十四年から三十七年にかけて、瀬戸の人から綱不知(東白浜)の人まで大勢加入するに及び全村的となったので、江津良と書かないで瀬戸鉛山村としたように思われます。

一頁目には次のように書かれています。

「大師講中規約」
一、本山納金として一ケ月一戸に付き金壱厘づつ定め候事
二、燈明代として一ケ月一戸に付き金壱厘づつ定め候事
三、山籠修行世話料として1ケ月一戸に金壱厘づつ相納め候事
四、正月、五月、九月其外男は九歳、十五歳、二十五歳、四十二歳、六十一歳
五、女は七歳、十三歳、十九歳、三十三歳、六十一歳
六、右祈願料として一戸に付一ケ年金九厘相納め候事

右の規約堅く相守り候事  明治三十三年十二月吉日

(注 ②) この規約の本山納金とは高野山大師講の本部への納金であり、燈明代とは地元講中の維持費です。四と五は男女の厄年に当たる人が祈願料として別に納めたようです。

講員は、十河宗右衛門、井戸芳松、三木与平、中井円太郎、堂初次郎、田野房吉、田井万吉、湊勘三郎、東市太郎、田井勇二郎、田井力松、中鹿蔵、十河宗太郎、三木駒治郎、田井善九郎、田野定吉、中野半七、東与五郎、田井与四郎、湊喜代松、堂吉蔵、西前音吉、田井辰蔵、湊福松、江口音松、西鉄造、嶋丑松、田岸甚松、中野新三郎、田井国松、西本捨松、渡瀬愛吉、花岡虎吉、田野清蔵、田井弥四郎の三十七名といいますから江津良区民は全戸ということになります。

明治三十七年になると、瀬戸・綱不知の人達まで加入したので一一〇名に増えました。最後には大世話人として田井力松、田井勇二郎、田井善九郎、十河宗太郎の四名と、小世話人に瀬戸の人も入って中井円太郎、三木与吉、田野うめ、大江たか、古家いし、辻くす、岩城かる、岩城きく、真鍋さん、の九名が記載されています。

裏表紙には行者の住所、鹿児島県阿多郡清水町二六四番地 士族 山籠念仏修行者 武田精心とあって、当時の大師講の盛況が偲ばれます。

(注 ③) ところが当時の鹿児島県には阿多郡清水町という地名はなく、川辺郡川辺郷清水村というのがあります。現在では川辺郡川辺町字清水となっています。

こうして、行者はこの地方の信仰の的でしたが、彼もまた人の子、ましてや四十代の男盛りで一人暮しです。いつしか地元のA未亡人と懇ろになって、誰いうとなく「行者さんとAさんが臨海の浜に居った」とか、「どこそこに居た」とかの噂が立つようになりました。

その後、彼はここがうるさくなったのか、或は居づらくなったのか、ある日、いつものように旅に出たまま帰らなくなりました。その後は、消息不明のまま今日に至っているそうです。

地元の人達は、この行者さんの遺徳を偲ぶため、昭和九年地蔵堂の横に「武田精心の碑」を建立し、彼の残した「大師講控え帖」や「納経帖」を大切に保存しています。
行者、武田精心が最後に出発した十二月十九日を命日と定め、今でも供養を続けているそうです。

shira10