◎ 宗太郎船
昔は田辺から瀬戸へやって来るには、陸路をとるよりも、船で田辺の大浜から江津良へ渡り、それから瀬戸や湯崎まで歩いたほうが便利であった。そのお陰で、江津良の港は瀬戸の玄関口として栄え、明治の初め頃には現在の中井清四郎宅の横あたりに、船乗り相手の飲み屋が一軒あったということである。

船が出入りするためには、ぜひとも波上場が必要だったので、明治十八年に、やっと小さな波上場が築かれたが、船の出入りが頻繁になるにつれ、その後二回ほど大きな改修が加えられて現在に至っている。

しかし、波上場が出来たといっても定期便の渡し船があったわけではなく、急病人が出たといっては漁船で田辺まで連れて行ったり、所用があると各自で漁船を仕立てて田辺まで行ったりしなければならなかった。 時代が移り変わって、明治二十七年二月には瀬戸部が発足したが、当時は瀬戸鉛山村の役場ができて間もない頃だったから、行政の半分くらいは瀬戸部が取り仕切っていたようだった。

瀬戸部としての最初の仕事は、まず村民の交通の便を計る必要があるので、田辺大浜と江津良の間に定期便の渡船を就航させることにし、渡船業者を入札によって決定することになった。その結果、江津良の十河宗太郎(十河宗美氏祖父、当時二十九歳)と港勘三郎(現在遺族不明)の両人が落札して、二人が隔日交替で運航することに決まった。

渡船といっても漁舟を少し大きくした三丁艪の舟で、沖に出るまでは常に二人が艪を漕ぎつづけ、江津良の浜を出ると、「ワガエの鼻」まで漕ぎ上り、そこから初めて帆を揚げて田辺の大浜まで疾走したそうである。江津良から大浜までの所要時間は四十分くらいだったということである。田辺の港で、荷物を積卸ししたり、人を乗せたりしたあと、昼前に出港して江津良へ戻り、積んで来た荷物は荷車に積みかえて瀬戸の部落まで配達したのだそうだ。

当初の運賃は大人三銭で小人は半額、米一俵の運賃は二銭だったが、明治三十六年の運賃改正で大人十銭(但し地元民は八銭)米一俵四銭、酒一斗樽六銭などに値上げされたという。当時の主な荷物はやはり米俵であった。田辺の大浜付近に岡徳という米間屋があって、そこから瀬戸の古屋米店(現古屋富士夫氏宅)や江津良の房こおいさん(現田野勘一郎氏宅)の店へ運んだそうである。

このほかに、突卸しという今日の貸切船のような制度もあって、貸切料金は七十銭だったと聞いている。明石の鯛舟が大漁をしたとき、これを買い付けた田芝や左海の魚間屋のおいさん達が(当時は電話がなかった)駆け付けてきて、「今夜の急行船《那智丸・牟婁丸》に間に合うように田辺まで行ってくれ」というような注文も時々あって、こんなときは夕方からでも舟を出したそうである。

大正時代に入ってからも、六代目の芝田与七さんが十河家へやってきて「宗太さんや、舟を出してくれんかネ」と、よくこの突卸しを利用されていたという。こんな時はポンと大枚二円をはずんでくれたというのが語り草になっている。

このように渡し舟稼業を二十年もやっていると「宗太郎舟」という名物の一つになって、他の業者の噂などはあまり聞かなかった。

やがて大正時代になると、焼玉エンジンで走る動力船が普及するようになり、大正四年四月、田井勇二郎さん(田井勇一郎氏父)も許可を受けて渡船業を始めたが、これは三年くらいで廃業されたようである。

大正八年五月、宗太郎氏が五十四歳で亡くなったので、息子の唯右衛門、宗造の兄弟が宗太郎舟を引き継いだが、これも一年ほどで廃業することになり、その後艪漕ぎの渡し舟は姿を消し、ポンポン船の瀬戸丸の時代へと移り変わっていったのである。

◎ 日露の祝賀会と花火大会
宗太郎船の船主、宗太郎氏は港勘三郎氏と交替しながら隔日に渡船で田辺へ通うのが日課になっていた。

明治三十年代の田辺の町は紀州藩の家老、安藤帯刀の城下町で、瀬戸の部落とは比べものにならないほど賑やかであった。
瀬戸で手に入らない品物も、この町では何でも買い求めることが出来たので、宗太郎は瀬戸の人達から注文を受け、田辺の町でそれを買いととのえる便利屋のような役目も果していたのである。

彼は田辺の町々をあちこち回っているうちに、何故か花火に関心をもつようになった。田辺の町へでかけると少しずつ花火の材料を買い集め、それを持ち帰って自宅で試験的に花火を上げ、子供達に見せては楽しんでいた。

そのうち日露戦争が始まり、そして勝利の日が訪れて日本国中が戦勝気分に沸きかえり、あちらでもこちらでも祝賀の旗行列や提灯行列が盛大に行われた。

我が瀬戸鉛山村でも明治三十八年八月某日、瀬戸の浜で大祝賀会が開かれた。当時の古老の話によれば、この祝賀行事で最も印象に残っているのは谷口熊吉(中地)の大鼓と十河宗太郎(江津良)の花火であったという。

祝賀当日の谷口さんは、太鼓の上にジャンジャン鳴る銅鑼を取り付け、太鼓の周りには金モールの房を付けて肩からぶら下げ、チンドン屋よろしく踊り回った。
「日本勝った、日本勝った。ロシヤ負けた!
負けてもええじゃないか、ロシヤじゃもの!」
面白おかしくチンチンドンドンと踊り歩くと、太鼓の房がゆらゆら揺れ動いて、その踊り狂う姿は日露戦争の勝利の嬉しさを体じゅうで表現しているようであった。この祝賀行列は瀬戸の浜から白良浜の「松原」まで続いたそうである。

その夜は瀬戸の浜に大勢の人が集まって賑わい、その中で宗太郎さんの花火が何発も打ち上げられて人々を楽しませたということだった。

宗太郎さんは元来利口な人であったらしく、特に花火の専門家に技術を習った訳でもないのに、自宅の一隅に作業場を設け、花火の原料を買い集めてきてはせっせと花火作りに励んでいたらしい。子供達が作業場へやって来て、置いてある道具をいじっては、彼に「危ない!」と叱られたらしい。

毎年、八月二十三日に行われる地蔵盆の四、五日前になると、地蔵堂の前の畑を潰して平らに均し、その傍らに仕掛け花火の用意をする。彼は自宅の作業場で火薬を竹筒に詰めたり、色々な道具を使って工夫した花火を地蔵盆までに作り上げるのである。

いよいよ当日ともなると江津良の人は勿論、瀬戸や湯崎あたりからも大勢の人が花火を見にやって来る。彼の作った仕掛け花火は、当時としては、かなり手のこんだものだったらしい。「流れ星」という仕掛花火は、江津良の地蔵堂から現在の白い校門前の坂本の地蔵さんまで、約百五十メートルの間にロープを張り渡し、その上を火を吹きながら飛んでいって、頂上の坂本地蔵前に着くや否や、空中に舞い上がって炸裂するという当時としては奇想天外なものだったという。

打ち上げ花火は、今日のそれと比べれば幼稚なものだったに違いないのだが、その当時としては彼なりに工夫を凝らしたもので、上空で炸裂してからキラキラ光りながら散らばって落下するものなど色々あったと聞いている。花火大会のような催しは当時の人々にとっては大変珍しかったらしく、今に語り草として伝えられている。

長年に互って続けられたこの催しも、大正八年に宗太郎氏が亡くなると、こんな催しをする人もなく花火のように、あっけなく消えてしまった。
shira13