明治から始まった「瀬戸の渡し船」は、手漕ぎ舟が二艘ありましたが、大正時代になってから「ポンポン船」と呼ばれた焼玉エンジンの船に変わりつつありました。大正六年には二艘の渡し舟のうち、田井勇二郎の舟が廃業したので、宗太郎舟が一般で渡しを続けていました。

大正八年頃、江津良の青年達が三木左助、堂 国松らを中心として、「ポンポン船の渡し船」を始めようではないかと計画を練りはじめました。ちょうどその頃、古座町の大船主、浅利氏の持船で第一住嘉丸(二〇〇石積)の名船長として知られていた田野永吉氏が三十年間の船員生活に別れを告げ、陸上で気楽に働こうと帰郷していました。

彼は非常に優秀な船員でしたので「住嘉丸、来るか来るかと出てみれば浜の松風音ばかり」と歌に唄われるくらい人気があったのです。しかも親方のために、とてよく働いたのでその退職を惜しまれ、当時としては破格の退職金三千円を貫って意気揚々と帰って来たのです。

彼は子供達に「江津良のシマで現金三千円持っているのはワシよりほかにないやろ」と自慢していたという、そんな微笑ましいエピソードの持主でもありました。江津良の青年達がこの金に眼をつけたという訳でもないでしょうが、三木、堂の二人が田野氏のところへ行って「ポンポン船」による渡し船の計画を話して協力を求めました。彼はそのとき、
「地元の江津良にとってもええことやし、わしも商売は好きやけど、永いこと船にばかり乗っておったんで、少しは海老網をやったり、畑づくりしたり好きな事して暮らしてみたい――。わしは直接、渡し船にかかわらんけど、お前ら若いもんで頑張ってみいよ」と言ってポンと千円を出資したそうです。この資金を元に、あとは地区民が一株十円づつを持ちよって組合を作り、社長に田野永吉。会計、三木佐助・船長、堂 国松・船員、島 忠蔵のメンバーで発足することになりました。

そして、使用する船は、三木たちが瀬戸内方面で、五トンの中古船を見付けて千二百円で購入し、それを《瀬戸丸》と名付けました。けれども、当時はまだ機関士の資格を持った者がいなかったので、三木の友人の世話で江川に住んでいた山本氏を高給で迎えました。

こうして大正九年六月十五日、田辺警察署より江津良―田辺大浜間の渡船免許もおり、いよいよ巡航船《瀬戸丸》の就航にこぎつけたのです。このとき「手漕ぎの渡し舟」の十河宗太郎氏は前年に死亡しており、その後を兄弟が受け継いでやっていましたが、それもすぐに廃業しましたので、渡し船は瀬戸丸の独占事業のようになりました。 一日に田辺と江津良の間を二往復し、忙しい時は三往復の日もあったそうです。

瀬戸丸の運航を始めてから一月後の七月二十二日、常喜院の地鎮祭の日は瀬戸鉛山村始まって以来という人出になり、田辺や付近の村々から大勢の人たちが集まって来ました。当時はまだ綱不知の桟橋はありませんでしたが、瀬戸丸を綱不知湾に着けて客の便宜をはかり、何度もピストン輸送でお客を運んだそうです。

客の中にはポンポン船は初めてだといって大喜びする人もあり、運賃六十銭で何回も客を運んだ船主の方も大喜びの一日でありました。このように、村で唯一の交通機関であった瀬戸丸のスタートは好調で、運航開始と共に、江津良の浜も次第に賑わってきました。

兵隊さんの送り迎えには大勢の人達が付き添ったものです。瀬戸丸が登場するまでは手漕ぎの舟だったので人数に制約がありましたが、ポンポン船の瀬戸丸が出来てからは、大勢乗ることが可能になったので、今まで船に乗れなかった人達まで田辺へ送りに行くようになり、当日は見送りの人たちで瀬戸の浜はお祭りのような騒ぎになりました。

連合運動会や相撲大会のあるときも、出場選手だけではなく、その父兄や応援の人達も瀬戸丸を利用しました。それに、今でいう観光旅行の出発も瀬戸丸に乗るところから始まったのです。

大正十年二月、瀬戸青年会が日帰りの行楽に出発しました。参加者は三十五名、午前七時ごろ瀬戸丸で田辺の大浜まで渡り、ここから歩いて高尾山の登頂をはたし、夕方には江津良へ帰りつくことができました。 また、大正十二年四月二十七日の道成寺会式には瀬戸の人たち八十人が瀬戸丸を借り切って御坊港へ乗りつけました。天田橋の下流に大阪商船御坊扱店があり、そこに大阪商船の艀が発着する専用桟橋があったので、それを利用させてもらったのです。

瀬戸丸の就航によって荷物の配送も便利になりました。少しの荷物は今までどおり江津良の浜から荷車で配達しましたが、大量の荷物は届け先に近いところまで瀬戸丸を回航して荷揚げしたのです。

大正十年五月から約二ヵ月、臨海京大研究所の建築中は、田辺の清水製材所が建築資材を納入するのに瀬戸丸を利用し、毎日臨海の浜へ荷揚げしたものです。そして瀬戸丸は人や荷物の運送だけではなく、海難事故や遠難者がでた時も活躍しました。大正十一年十一月二十二日、大阪商船吉野川丸の遭難救助の話は、当時の瀬戸丸乗組員、田野永一郎さんに語ってもらいました。

「当日の昼前、田辺の大浜で積み荷作業をしていると、今朝田辺を出港した吉野川丸が、塔島付近で遭難信号の汽笛を断続的に鳴らしているのを聞きました。よく見ると船が全く動いていない。アアこれは座礁したのだなあと直感しましたので、当時の大阪商船田辺扱店の尾崎店長に連絡をとり、彼を乗せて吉野川丸へ急行しました。

現場に着くと、もうかなり潮が引いており、吉野川丸は船底が見えるくらいに干上がっていました。何をおいても、まず乗客を救助しなければならないので、本船の甲板から瀬戸丸ヘロープを張り渡し、乗客一人一人をロープ伝いに瀬戸丸へ移しました。その間、瀬戸丸はエンジンを後進にかけっばなしにして船が岩礁へ寄せられるのを防いだのです。幸い昼間の出来事だったので、お客や郵便物は、すべて無事に臨海の浜へ揚げることができましたが、船体はついに離礁させることができず、結局現場で解体することになりました。

座礁した船の解体作業にやってきた職人たちは江津良の民家に一ヵ月位も滞在していたでしようか――。このとき、瀬戸青年会も海難救助に活躍して、各方面から大変感謝されました。