このように村の大切な渡し船ではありましたが、中古船の悲しさ。船底の傷みも予想外に早く、それにエンジンの修理などで出費がかさんで、修理のための休業を余儀なくされるというトラブルが続き、堂氏や島忠蔵氏らは二、三年で退職してしまいました。

しかし、三木佐助氏は
「わしは田野永吉氏を引っ張りこんだ責任もあるので、最後まで頑張るつもりや」と言って孤軍奮闘しました。人手不足のときは田井儀三郎氏に手伝ってもらって外交に力を入れたり、経営の立て直しを図ったりして努力しましたが、結局はうまくいきませんでした。

大正十二年頃、堂 国松氏から
「今、貨物船の天神丸に乗っている田野清蔵氏なら男の子も多いことだし、うまくやっていくかも知れないよ」という話が出されました。

早速、田野氏と折衝した結果、うまく話がまとまり大正十三年二月十五日、瀬戸丸の所有権・営業権などを田野清蔵、清一郎親子に譲渡しました。それ以来、終戦後の昭和二十八年までの長い間『瀬戸丸」といえば田野清一郎、田野清一郎といえば『瀬戸丸さん」と屋号で呼ばれて、みんなに親しまれました。そして瀬戸丸は彼の温和な人柄とあいまって、田辺・白浜の人々に愛される渡し船となったのです。このときの乗組員を書いておきましょう。

船長 田野清蔵(五十二歳) 機関長 田野清一郎(二十二歳)
甲板員 田野勘二郎(十八歳) 甲板員 田野 大蔵(十六歳)

長男の清一郎はそれ以来、家業の《瀬戸丸》の中核となって働くようになりました。毎朝七時頃、自転車の後ろに大きな竹かごを取り付けて「リン」を鳴らしながら江津良を出発し、西地・中地・下地と回って商店や家庭で託送する荷物を集めたり、買い付けの注文を取ったりして江津良へ帰ります。そして八時半頃、瀬戸丸で田辺大浜へ向かうのです。

田辺では米俵・酒・醤油などの食品にはじまって、建築資材の木材・セメントに至るまで何でも積み込み、昼までに江津良へ引き返します。陸揚げした荷物は大八車に積んで注文主の家まで配達するのですが、この仕事をこなすには大勢の人手が必要だったので、学校に通っていた清四郎、清、清七ら家内総出で働きました。

当時の道路は勿論舗装されてなかったし、鉄の輪をはめた車輪だったので、荷車の車輪が軋んでなかなか簡単には動かなかったといいます。米俵なら四俵までどうにか二人で動かせたが、六俵も積んだときは「坂本」の登り坂を上ることが出来ず、近所の農家に頼んで牛を借りてきて、牛に引かせたりしたこともあったそうです。
shira14 ※大正五年十一月、瀬戸で、左海与一氏が初めて自転車を購入しました。

家内総がかりの努力が効を奏して、渡し船の事業も軌道に乗りはじめたころ、白浜の第一次躍進時代が始まり、旅館や飲食店そして住宅などの建築ラッシュが続きました。建築資材の需要が増えると共に、それに関連した生活物資や日用品も大量に搬入されるようになり、瀬戸丸の業績も日増しに良くなっていきました。そのうちでも代表的な仕事の例を幾つか挙げてみます。

一、白良荘の建築
昭和四年の天皇陛下の行幸前から白浜の発展に注目していた和歌山市の財界グループがありました。その中の有志数人が雑賀熊楠氏を代表取締役として、瀬戸鉛山村八六八番地に大きな旅館を立てることになりました。建築に使われる木材は田辺の清水製材所から調達することになり、用材を瀬戸丸に積んで運び、白良浜の露天風呂の近くへ陸揚げし積み上げてありました。

ところが昭和四年三月十二日の大時化で建築材が波にさらわれ、沖へ流れ出したのです。そのとき、これを回収すべく青年会の会員が大勢出動して活躍しましたので、被害は最小限度にとどまり、白良荘から大変感謝されたというエピソードがあります。

二、錦城館の移築
錦城館(高田善一館主)は田辺城中(しろなか)の老舗でしたが、経営が思わしくなかったので、隣の町、白浜温泉の発展ぶりに目をつけて全面移転することにしました。移転先は御幸通りの現在ホテル「むさし」のある場所です。この土地は白浜土地会社の所有でしたが、これを買い取って田辺で解体した旅館をここに立て直すというのですから運搬が大変な仕事になります。この輸送の仕事が錦城館の後見人であった小幡医師から瀬戸丸へ依頼されました。

それからというもの、毎日毎日、田辺で取り壊された旅館の建築部品、瓦や柱材は言うに及ばず敷石に至るまで、あらゆる資材を瀬戸丸に積んでは、瀬戸の「松の湯」下まで運びました。そして陸揚げされた資材は、そこから建築現場までレールを敷きトロッコで運んだのです。移転に要した期間は半年位だったと思いますが、こうして錦城館は立派に再建され昭和五年五月、盛大に開業の日を迎えたのです。

瀬戸丸がこの資材輸送を請け負って手にした運賃は六百円だったそうですが、その話を聞いた瀬戸の人達から羨ましがられたと聞いています。余談になりますが、館主の高田さんは元騎兵伍長だったせいか、大の馬好きで、田辺で飼っていた馬も家族の一員として連れてきました。それが発端となって白浜に乗馬クラブが出来たということです。

瀬戸丸はこのようによく働きましたが、老齢には勝てず、昭和八年に田辺の天神にあった大時造船所(西野時造棟梁)で旧船より少し大きい貨物専用の「新瀬戸丸」が進水したのを契機に現役を退きました。

昭和十年五月、船主の田野清造氏が六十三歳で亡くなり、長男の清一郎氏が後を継いで従来通り運航を続けていましたが、その頃から次第に戦争の気配が濃くなってきました。そんな時期、昭和十五年、大阪商船白浜扱店の貨物専用船「乙姫丸」と「瀬戸丸」が合併して温泉組運送会社を設立し、半月毎に交替で船を出して輸送に当たることになりました。 大東亜戦争が始まると、田野家の屈強な男たちは次々召集され、昭和十八年の五月には船主の田野清一郎氏にも召集令がきて、残されたのは女子供だけになってしまいました。更に、昭和十九年には「瀬戸丸」も徴用されましたので「渡し船」としての営業は全く出来なくなりました。

その後「瀬戸丸」の消息は不明でしたが、あるとき、江津良沖を文里港へ向かって航行している「瀬戸丸」を見付けた田野家の人が、「あそこを、うちの瀬戸丸行きやら――」といつまでも見送ったのが、家人の瀬戸丸を見た最後であったということです。

そして終戦後、抑留中のシベリアから引揚げてきた田野清一郎氏は、四、五年経ってから東白浜の現在地に小さな事務所を建て、オート三輪で運送業を初めました。店の名前も白浜運送と改名しましたが、 一般貨物運送の認可が出たのは昭和二十八年のことであったといいます。