美之浦から瀬戸四丁目ヘ通じる道は今でこそ立派な自動車道路になっていますが、昔は細い山道が通じているだけの寂しいところでした。

この山道の峠に一本の大きな松の木があって、その下に小さな地蔵さんが祀られていました。
古い時代の言い伝えなので真偽のほどは分かりませんが、私が昭和六年に祖母から聞いた話を書きとめておいたものを紹介しましょう。

昔むかし、三軒家に住んでいた「奥の爺さん」が近くの田圃で野良仕事をしていて、ふと振り返ると田圃の畦に一本の花が立てられているのを見付けました。爺さんは不思議に思いながらも、その花を引き抜いて捨ててしまいました。そして翌日ここへやって来ると、やはり昨日と同じ場所に同じ花が立っていました。爺さんは「誰のいたずらか知らないが、つまらぬことをするものだ」と怒りながらこれも抜いて捨てました。

翌々日もここへ来てみると、また同じところへ花が立っています。これは不思議な事だ。何か訳があるに違いないと考えた彼は、家へ帰って神様にお伺いをたてました。神様のお告げは「隠岐国の焼火(たくひ)権現がこの場所を気にいってやって来たのだ」ということでした。

これは大変だ、と驚いた爺さんは綱不知の人達と相談した結果、祠を建てて、この神様をお祀りすることにしました。そのとき、綱不知の瓦屋さんが「私が瓦を奉納するから立派なお堂を建てましょう」と言いました。しかし神様にお伺いをたてると「お堂はいらないから松の木の根元に祀ってほしい」ということでしたので、松の木の下に小さな祠を作りました。
お祀りした隠岐国焼火権現(おきのくにたくひごんげん)は仏様というより神様のようでした。

その後、長い長い歳月がながれ、昭和四十八年頃からこの松も松喰虫の被害がひどくなり、とうとう枯れてしまいました。

そして昭和五十年五月三十一日惜しまれながら切り倒されてしまったのです。

このとき、今までの祠があまりにも貧弱だったので、この際建て替えしようではないかという声が上がり、岩城家一統の惣八・一治・円太郎・延行・宗次郎の各氏が発起人となって寄付を募り、地蔵堂を建立することになりました。そして昭和五十年八月に浄財百五十万円を投じて新しい「松の木地蔵堂」が完成したのです。

この老松を切り倒したとき、その年輪を調べてみると百三十八あったので、地蔵さんがここに祀られた年代がほぼ推定できました。

隠岐国の神様と「松の木地蔵」との関係については、南紀高校の大原先生が古文書を調べたり現地調査したりして次のような説を発表されています。

「隠岐国の西ノ島町に焼火山(四五二メートル)という山があり、この山頂に焼火神社があります。この神社には一条天皇の時代、海中から山中に飛び移った火の神が祀られていて、毎年大晦日には御神火が海から神木へ飛んできます。これを採火して常夜灯を灯し沖ゆく船の安全を祈ったという言い伝えがあるのです。このように山の上に在っても海を守る神でありました。

近世になってからも北陸地方の米を江戸へ届けるには、やはり船に頼らなければなりませんでした。山陰・隠岐・下関・瀬戸内・紀州沖を通って江戸へと向かうのですが、海上は難所も多く遭難も絶えませんでした。 これら船の安全を祈るために、この焼火(たくひ)権現の分身をこちらに勧請したものでしょう。だが長い年月の間に『焼火権現」よりも『松の木地蔵』の方が通り名になったのだろうと想像されます。」