昭和四十年十一月二日、それは白浜第一小学校(池永良雄校長)が瀬戸一丁目七五〇番地から瀬戸四丁目一九〇番地へ移転することが決まり、移転予定地にあった「六部さん」を移転法要する日であった。

起工式をする前に、着工予定地内にある通称「六部さん」の五輪の塔を撤去しなければならない。この塔は旧地主、渡瀬政雄氏の所有していた雑木林の中(三五四八番地)で現在の小学校校門付近にあった。

法要は、まず熊本徳雄導師の読経によって始まり、門野永次郎建築委員長、そして各委員の焼香が続いた。

法要が終わって、いよいよ五輪塔を撤去することになったが、この小さな五輪塔(高さ九〇センチ)は碑面に何の字も刻まれていない。おまけに石質が柔らかく、永い年月で風化しているので角のところから、ポロボロ欠けてきて始末がわるい。

どうにか一段づつ丁寧に取りはずし、最後の底石を取り除くと地中に大きな壼が埋められていた。

壷の大きさは大人がやっと入りこむことができる位大きなものであった。壷の中は空っぼで地中にありながら水も溜まってなかったが、それにしても不思議な壼である。これを壊さぬように周囲から大きく掘りはじめたが、ちょっとした不手際があって、残念ながら壊れてしまった。けれども、問題の五輪塔だけは大切に運びだし、町営の新墓地入口左側の空き地に移すことができた。

ところで、この六部さんは「いつ」「誰が」「何のために」祀ったのか、その謎は解けないが、色々な説があるのでその幾つかを書いてみよう。


一、雑賀貞次郎氏の牟婁口碑集に瀬戸の古老から聞いたという「邯鄲夢の枕」というのがある。……昔、瀬戸から江津良へ行く途中に坂本というところがあり、その右手側の山道の少し上に砂岩で作った粗末な碑があります。そして、このあたりの地名を「じそんぼう」と呼んでいました。

ある時江津良に一人の山伏がやってきて、一夜の宿を乞いました。そして、その山伏は近所の人達を集めて、
「私は邯鄲夢の枕をもっている。この枕は欲しいものは何でも出せるのだ」と言いながら枕を振って村人達の欲しがるものを出して見せました。 夜も更けてから、村人の一人がその夢枕が欲しくなり、翌朝出発した山伏を「じそんぼう』の処で待ち伏せして彼を殺し、夢枕を奪いました。


二、門野英次郎氏の話

私の子供のころ、湊の親爺から聞いた話です……。
昔、江津良に偉い六部さんが住みついておりました。その頃、たまたま田辺郷と瀬戸郷のあいだに、漁場の境界をめぐって争いが起こりました。

そのとき、この六部さんが仲裁に入って理路整然とした論法で双方を説得し、神島から向こうは田辺の領分とし、畠島からこちらは瀬戸の領分とする、ということで決着を付けました。それ以後は瀬戸と田辺の間には、漁場をめぐっての争いもなくなり平和がよみがえりました。

この六部さんが亡くなったとき、地元の人達は、いつまでも六部さんが江津良や田辺湾を見守っていてくれるように、その亡骸を見晴らしのよい小高い山の上を選んで葬り、永く弔ったということです。

(注) 六部とは、六十六部とも言われ、六十六ヤ洲(全国の意)の寺へ参る自装束の巡礼姿をしていました。その姿は四国遍路のそれではなく、むしろ山伏に似たいでたちでしたので、行者さんとも六部聖ともいわれたそうです。


三、山の所有者の家族、西山せつさんの話

あの辺の山は私のところの持ち山でした。大きな雑木林などがあって、あまり入って行くようなこともありませんでしたが、それでも山へ行くときは、母から、
「いくら我家の持ち山でも、あの山のてっぺんには偉い六部さんを祀ってあるんやから、あの辺でオシッコなんかしたらあかんでエ――」と言われていました。


四、渡瀬新吉氏の話

なんでも江津良のために尽くしてくれた偉い行者さんを祀ってあって、あの下を通るとき、行者さんが鈴を鳴らしている間は、「あゝ、まだ行者さんが生きていて、我々を守っていてくれるんだ……」と、その下を通るとき、立ち止まって耳をすましたものです。そうすると、鈴の音が聞こえるような、聞こえないような気がしたことがありました。

(注) 仏教では、坊さんなり行者さんなりが、生きながら「定」に入ること、即ち、生き仏になるという事もあるので、この行者さんもそんな意味から地下の壷に入ったということにしたのだろうか……。


五、小山富三氏の話

私が以前、瀬戸の田岸造酒蔵氏から聞いた話です。
――ある年の秋、人品卑しからぬ旅の僧が瀬戸の某家に一夜の宿を取りました。その夜、このお坊さんは、
「私は伊賀からやってきた者で諸国を歩いております。――私はここに宝の枕を持っていますが、この枕で寝ると自分が見たいと思うどんな夢でも見ることができるのです……」と言って枕を見せ、その枕を使って寝てしまいました。

それを聞いていた宿のあるじは、その枕がどうしても欲しくなってきました。
翌朝、彼は先回りして、旅に出発した坊さんを峠で待ち伏せして殺し「夢枕」を奪いとりました。家へかえって早速枕を開けてみると、中から草履が出てきました。――
そんなことがあってから、この峠を「伊賀首」と呼ぶようになったということです。

(注) ところが「伊賀首」という地名は、現在では常喜院の南側の下方にあたり、「六部さん」の場所とはちがっています。