昔、瀬戸浦に「正三」という、えらい船乗りがおりました。主として兵庫県の灘から江戸までの間を行き来していたようですが、船乗りの神様のような男で、この「瀬戸正」の名は海運業者の間では、知らない者はいないくらい有名であったそうです。

彼はどんな暗い夜でも良く目がきいて、波の状態で今どこを走っているかが分かり、天候の変化を予知すること神技の如しであったといいます。灘から江戸までの航海中、船外の様子を見なくても今どこの沖を通っているか、ここはどこの港かというようなことをズバリと言い当て、少しも狂いがなかったと伝えられています。その「瀬戸正」について、こんな逸話が残っています。

ある暗い夜の事でした。彼の乗った船が遠州灘を乗り切って志摩の的矢港へ入港するために走っていました。そのとき、船室で寝ていた正三が突然はね起きて、舵を取っていた船頭に向かって大声で叫びました。「船頭!船が欲しいか、命が欲しいか!」船頭が驚いて「船も欲しいが命も欲しい」と答えたところ、正三はいきなり「面舵一杯!」と叫びました。船頭が慌てて船を右に転じた途端、左舷すれすれにポッカリと暗礁が現れ、波頭が夜目にも鮮やかに岩を噛んでいたといいます。
このように、正三は寝ながらにして暗礁を避けることができたのです。

また、こんなこともありました。正三の乗った船が二木島港で停泊していました。その日は絶好の凪ぎ日和でしたので、僚船の中には出帆する船もあり、出帆しない船は港の中でのんびりと休んでいました。ところが正三の船だけは一生懸命に荒天準備を始めたのです。他の船の者たちは、いくら「瀬戸正」でもこの上天気に「増し錨」をしたり「もやい綱」を固めるとは少し頭がおかしくなったのでは、と笑っていました。

ところが夜になって天候が急変して、出帆した船は遭難沈没するわ、港内に停泊していた船は互いに接触して破損するわ、の大騒ぎになりました。そんな中で瀬戸正の乗った船だけは平然と嵐を凌いだということです。それほど彼は天候の予知にも長じていたのでした。

ある時、船が郷里の瀬戸沖を通過するので、彼は遥かかなたの陸岸を眺めていましたが「俺の弟が浜で石垣を積んでるようやが、根石の据え方が浅いんで時化に耐えられんワ……」と傍らに居た者につぶやきました。果してその石垣はその年の秋、大波に崩されてしまったそうです。

その頃、献上米は全部大阪から船で江戸へ運んでいましたが、瀬戸正はこれを積み込むとき「何月何日に江戸表へお届け候也」と役人へ受書を出したといいます。当時の帆船は、風まかせで何日かかるか見当もつかないのが普通でしたが、彼には予定した日までに届ける確信があったのでしょう。

このように瀬戸正の航海術は神わざのような勘の牙えを見せましたが、彼は親方に対しても、船頭に向かっても、誰彼なしに「野郎」「野郎」と呼ぶので他の人達に嫌われ、一生涯船頭にはなれなかったそうです。そんなことから、当地では未熟な船乗りを戒めるのに「せめておまえ達に瀬戸正のドンサでも煎じて飲ませたい」とよく言ったそうです。
以上の話は瀬戸の元白浜漁業組合長、三瀬邦三氏の話を聞いて、雑賀貞次郎氏が「牟婁口碑集」に書いたものです。この瀬戸正の五代目の子孫が正木久吉という人で、九州若松市でかなり手広く回漕問屋や荷役業をやっておられ、若松市の市会議員も勤められたと聞いています。