この人は明治二十九年、瀬戸の三瀬勝三の三男に生まれた。彼の活躍した時代は大正四、五年頃から大正の終わり頃までであった。この人は相撲のほかにも文学を愛し、三究のベンネームで当時の文芸誌「赤芋」の同人でもあった。

彼が相撲を取った土俵場は、瀬戸二丁目で現在の小芝音次郎氏宅辺りの広場にあっらしく、そこへ瀬戸の若い衆が大勢集まって来て相撲の練習に余念がなかったという。若者たちの中でも三瀬は群を抜いて強かったらしい。彼の先輩では金谷徳松、そして三瀬と同級生の南傳左衛門、続いて小柄ではあるが雑賀弥七も強かった。そのほか島菊松、正木源九郎和田七蔵などの力士がいた。

「赤芋」の記録によれば、大正五年二月の田辺中学校で行われた西牟婁郡青年相撲大会では、これらの力士が活躍して優勝したと書いてある。 また大正六年二月の西牟婁郡青年相撲大会では金ケ崎(鈴木新五郎)が五人抜きに勝って優勝したが、あまり強すぎてプロではないかと沖田川から物言いがつき、優勝旗を貰えなかったという。

(注)文芸誌「赤芋」は大正五年十二月に第一号を発刊している。当時瀬戸の青年たちが、この鄙(ひな)びた村で青雲の志を抱きながら働き、そして文学を愛する人たちによって作られたものであるが、単に文学としてだけではなく、瀬戸鉛山村の歴史を知る上で重要な資料となっている。

同人は薮本近蔵ほかの人たちである。