この人は瀬戸四丁目(江津良)の十河宗太郎・みねの三男として生まれた。父宗太郎が若死にしたので、十五歳のとき弟たちと共に一年あまり家業の渡し舟を経営した。この家の兄弟五人は、皆大柄で力も強かったが、唯右衛門は兵役まではあまり相撲を取らなかった。

彼が本格的に相撲を取り始めたのは呉海兵団に入隊してからである。それは俗に言う海軍相撲で、体力・気力・腕力を鍛えた彼は、恵まれた体力と負けじ魂を存分に発揮して向かうところ敵なしだったという。

当時、呉海兵団では兵舎前に三つの土俵があり、大相撲の関取級の指導者が実地指導に当たったと聞いているし、艦上でも端艇操練などと共に、甲板上に速成の土俵を築いて相撲の練習に励んで体を鍛えたという。 大正十四年十二月に満期除隊して帰郷した彼は、四股名を『白良浜』と称し、紀南相撲大会に出場するや早速抜群の成績を挙げ、和歌山県下の大会でも優勝した。

その後、大正十五年十一月に開催された明治神宮全国青年相撲大会で彼は、和歌山県相撲団の主将を勤めた。このチームの団長は正木善松、会計は、保富太郎三郎、中堅には南川(高垣弥市)等がいた。

この大会で、和歌山県チームは堂々全国第二位の成績をあげ、中でも十河選手は個人優勝を成し遂げ、意気揚々と故郷に錦を飾った。故郷でも、これを祝って青年団主催の提灯行列が行われた。

しかし十河は、あまり相撲ばかりに熱中していると家業がおろそかになると考え、引退するのも潔かった。