戦前のスポーツの花形は相撲であった。体力を鍛えるのも相撲なら、娯楽として楽しむのも相撲であった。たいていの学校には相撲部があり、校庭には必ず土俵が設けられていたし、「まわし」も人数に応じて備え付けてあった。

学校だけではなく町や村の所々にも土俵場があって、青年会などが中心になり、体力増進とお互いの親睦を図るために夜遅くまで相撲をとっていたものだ。

土俵場の近くには力石といって丸い四、五十貫(約一八〇キロ位)の大石が置いてあって、相撲を取る前のトレーニングに使ったり、平素にもこれを持ち上げて、力くらべの試合をした。

瀬戸の芝田与吉氏の庭先には大小二つの力石があって、瀬戸の力自慢の若い衆がよく力を競いあっていた。大きい方の石はみんな腰まで挙げるが、それを肩まで挙げることができる青年は数少なく、江津良の田野清四郎氏(現在中井姓)くらいであった。

小さい方は学生用であるが、これでもなかなか肩まで持ち上げるのは難しく、力とコツが必要であった。このような力石は東白浜の瑜珈神社にもあったし、湯崎舘前の「竜紋石」は特に有名であった。

相撲は日本の国技であるのに、地方相撲はあまりふるわない。野球などの近代スポーツにお株を奪われてしまったのだろうか。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが。

相撲は場所は取らず用具も簡単で、一対一の力と力がぶっかり合うのだから、奇計も策略もない男と男の真剣勝負である。
判定も、いたって判かり易い。こんな良いスポーッが何故普及しないのだろうか――。

白浜では明治時代からずっと相撲が盛んであった。その時代、時代にふさわしい名選手、名力士が登場している。私は今、これら先輩の足跡を辿り、少しでも相撲熱が高まってくれることを願いながら郷土の相撲について書いてみようと思う。記憶が断片的であったり、前後が逆になっていたりするかも知れないが、それは後日訂正したいと思っている。

あちこちの神社仏閣の祭典や縁日、記念行事の催しがあれば、必ずと言ってよいほど、学童のチビッ子相撲大会や青年の相撲大会があった。相撲大会があると大勢人が集まり、会場が賑わうからだ。出場する選手は勿論、見物人もそれぞれ贔屓(ひいき)力士の勝った負けたでワイワイ騒ぎ、雰囲気が一気に盛り上がる。今日の野球の応援団のようなものであろうか。 紀南地方でも相撲大会は数々開かれたが、時によっては臨時の土俵を設けることもあつた。しかし、伝統的に賑わった会場は次の通りである。

一、田辺商業学校
二、熊野林業学校
三、田辺町、高山寺(七月十五日、弘法大師の誕生会縁日)
四、新庄村、大潟神社
五、鮎川村、剣神社(十一月三十日、秋祭り)
六、西富田村、堅田八幡宮
七、南富田村、金比羅宮
八、瀬戸鉛山村、藤九郎神社(春の例祭)