瀬戸の相撲取りの元祖はこの人であろうか。明治十一年、綱不知の正木定吉の長男として生まれたが、父が若くして亡くなり、早くから一家の柱となって漁師や百姓仕事に励んだ。

善松は幼少の頃より腕力が強く、「正木の子は赤フンドシやけど相撲は強い」とよく言われていた。昔は、マワシというものは、そうざらに手に入るものではなく、フンドシで相撲を取ったという。十五歳以下は赤フンドシ、十五歳以上は自フンドシに区別されていたらしい。

成長した彼は現役で大阪三七部隊に入営した。兵役を果した彼は、日露戦争が起きると再び召集され、満州へ出征したが無事に帰還することが出来た。彼が最も相撲に力を入れたのはこの時期だと思われる。

その後、彼は主として素人相撲の育成を図り、力士の世話役として有名になった。田辺も含めた『西牟婁郡素人相撲会」の会長も勤め「綱の親方」と尊敬され、綱不知では岩城のヒゲさんと並んで長老格であった。彼はまた人情が厚く、遍路さんや気の毒な人を自分の家に泊めてやるのは勿論、田辺の町で馬鹿にされていた「あほ由」さえも泊めてやったらしい。このように万事彼は任侠的な気質の持主だったから、そのため家の財産をかなり減らしたと伝えられている。

大正十二年に、田辺の沖田川・若勇(泊松次郎)と共に勧進元を勤め、大阪、大相撲協会の天竜(小結)大の里(大関)の断髪力士を田辺へ誘致したのはよかったが、場所前日に天竜が腹痛を起こし出場できない事態になってしまった。観客は
「前売券の金を返せ」と言って怒りだし、大変な騒ぎになったらしい。結局この興業で彼らは大損したのだが、このときの損害も彼一人で被ったということだ。

そして、外にも大小の勧進元を勤めたが、我欲のない相撲普及のための興業だったので、たいていは損ばかりしていたようである。

昭和四年六月一日、昭和天皇が初めて瀬戸鉛山村へ行幸されたとき、数ある海士の中から五人が選ばれて天皇の御前で潜水を披露したが、彼は見事にその海士の長をつとめたのである。その光栄はきっと後世に語り継がれることであろう。

昭和十一年になって彼は病の床につき、十一月六日、五十九歳の若さで死んでしまったが、彼を慕う大勢の相撲愛好者たちは、その遺徳を称えるため綱不知の瑜珈神社のふもとに彼の顕彰碑を立てた。その除幕式と追善供養相撲大会は十二年四月二日、彼ゆかりの瑜珈神社広場で盛大に挙行された。

このとき、碑石のテープカットをしたのは彼が愛した孫娘の真鍋沢子(十歳)だったのである。