明治二十六年十二月湯崎にて生まれる。湯崎小学校を卒業してから、旅館「酒井家」出身の叔父が広島県宮島町の大巌寺の大僧正をしていたので、そこへ養子にやられる。

三年間くらいは小僧の見習いをしていたが、十六歳のとき骨膜炎で耳が聞こえなくなり、郷里の湯崎へ帰ることになる。家へ帰った彼は、按摩を習えと勧められ、気が進まぬまま田辺の愛須按摩店で修行を積んで一人前の職人に成長した。

人並み外れて力が強かった彼は、そのころから相撲を取るようになりめきめき頭角をあらわし、あちこちの相撲大会で優勝を果すようになった。土俵で裸になると彼は背中一面に入れ墨をしていたが、それは彼の耳が聞こえないので、人に馬鹿にされてはいけないという理由からだそうである。

その頃、江川に「早千鳥」(古川藤七)という海軍あがりの力士が居て、大正二年から田辺中学校の稽古代として学生相撲の指導に当たっていた。彼はこの人に仕込んでもらって力を付けてきたが、その古川氏が大正五年七月、三十歳で亡くなり、彼はその後を引き継いで田辺中学の相撲指導員を引き受けた。彼の四股名の「早千鳥」というのは、この古川氏のそれを踏襲したものと思われる。

彼は力士としては小ぶりな体であったが、相撲の取り口はきびきびしていて、負けん気が強く小技が得意であった。相手の足を取ったりするので、どちらかと言うときれいな勝負ではなかったという。

いろんな大会で幾度も優勝はしているらしいが、その記録はあまり残されていない。僅かに残っているのは大正八年九月十五日の堅田八幡宮の三人抜きの優勝幣である。このとき彼は二十六才であった。

そして、彼が世を去ったのは昭和四十二年十二月二十三日(七十三歳)であった。

(注)辻本定雄が養子に行った宮島大巌寺(巌島神社の隣)では辻本が湯崎へ帰ったあと、酒井紫郎を養子に迎えたが、この人は後に高野山遍浄光院へ行って学者になった。戦後この大僧正が亡くなって後継者問題で揉めたようだが、やはり身内からということで湯崎の百合万六家出身の僧侶が就任している。