明治二十五年、湯崎で生まれた。母は「おきそ」。彼の四股名は金ケ崎といって紀南地方ばかりでなく県下でも有名であった。恵まれた体格の持主で、プロの力士になっても通用する風格を備えている上に頭もよく、事業家でもあり、政治家としての資質も兼ね備えていた。

彼は後年、住まいを田辺本町に移したが、ここでも彼の力量を認める人達が集まり交際範囲が更に広がった。後輩力士であった栗栖川出身の「和歌桜」や、川辺町出身の関脇「和歌島」(本名松井三郎)たちも常に彼の世話になり、叱られたり教えられたりしながら育った人々である。 彼の口の悪いことは有名であったが、それなりに筋道の通った理論家でもあったので、頼まれれば面倒を起こした男を警察へ貰い下げに行ったり、もめごとの仲裁に入ったりした。そんな世話好きで任侠的な彼を、口さがない人々は「ボス的な男だ」と言ったりしたが、確かにそんな一面もあっただろう。

彼は画家の川島草堂や作家の長谷川伸とも親交があった。川島草堂が御坊の家で危篤に陥ったとき、夫婦で駆け付けて最後を看とったというほどの仲であった。

湯崎で育って小さい時から海に親しんでいた彼は、息の長さや潜りの腕前も抜群であった。ひと潜りすれば必ず何かの獲物を仕留めて上がってきたというし、当時流行した銛棹(チョッキ)で魚を突くことにかけては名人であった。こんな彼と海との関わりについては、昭和二年発行の「紀南の郷土読本」という旧制中学校の教科書に『海の怪人」という題でその様子が述べられている。

このように、海の狩人として、力士としてこの地方に勇名を馳せたが、相撲大会での成績はあまり記録が残っていないのが残念である。ただ、大正八年九月十五日に堅田八幡神社例祭に行われた相撲大会の記録があるのでこれを紹介しておこう。

この神社の相撲大会は伝統のある催しで、紀南の各地から力自慢の素人力士が集まるので、大勢の見物人が押し掛け大変な賑わいであった。この大会で彼は五人抜きと、最後の三役力士相撲で優勝している。この時期が鈴木新五郎二十七歳の全盛時代であったのだろうか。

当日の相撲大会の勝者氏名と四股名を記しておこう。

▽ 三人抜き  早千鳥(辻本定雄)
▽ 五人抜き  金ケ崎(鈴木新五郎)
▽ 七人組勝者 江津良浜・鉛山・瀬の海・綱の海・若千鳥・沖ノ海・今錦
▽ 三役相撲  金ケ崎(鈴木新五郎)

大正十三年三月、田辺中屋敷町での県下素人相撲大会では、彼は中泉に敗れている。そして、その後は現役を退き県下相撲界の重鎮として四本柱に座ったり、相撲大会の勧進元を勤めたりしていたようだ。

私は戦後になってこの人と知り合い、色々と教えられる事も多かったが、ふと彼が洩らしたこんな言葉が忘れられない。
「相撲取りというのは阿呆ばかり寄っとるさかい、興行に出ても二十歳やそこらの流行歌手二、三人と、大の男三百人とギャラ一緒なんや……」
この鈴木新五郎氏も昭和四十五年十一月十五日に七十八歳で大往生した。紀南の相撲を語る上で忘れられない一人である。