臨海浦は今でこそ、観光地の一部として賑わっていますが、六十年前、京大の臨海実験所が設置されるまでは、瀬戸半島の尖端部に位置する荒地で、それはそれは淋しい場所でした。ですから、それにまつわる怪談の一つや二つあっても、決して不思議ではありません。

この京大臨海実験所が開所するまでに、現代では信じられないような奇怪な出来事が起こっていたのです。そして、その当時を知る人も次第に数少なくなり、今では古文書と、当時の村役場に勤めていた唯一人の現存者である、宮崎伊佐朗さんにお聞きするより外に方法がありません。

京都大学臨海実験所を瀬戸の「崎の浜」へ誘致することが決まったのは大正十年の二月のことでした。そして、翌月の三月に宮崎さんが瀬戸鉛山村役場へ書記として奉職されたのです。当時の役場職員は、浦漣村長、大津吉次郎助役、藤原豊三郎収入役、それに古家甚助という小使さんの四人だったそうです。そして京大実験所建設工事の過程では、瀬戸部の役員と宮崎さんが折衝にあたったそうです。

奇怪な現象が起こりはじめたのは、整地作業が始まった時からでした。工事はまず、雑木林や桑の木の伐採から始まりましたが、基礎工事が進むにつれて白骨が沢山掘り出されたのです。何でも水族館の建物を中心として四十体くらいの自骨が出てきたといいます。

そして、最初の不幸な出来事が起こりました。水族館の水槽を建設中に、一人の若い大工が足を滑らせて転落死したのです。それに引き続いて一年足らずの間に、請負人の家族に凶事が起きたり、監督を務めていた県技手の奥さんが死んだりする不幸事が続きました。

翌年のはじめ、研究所の実習船が新造され、その機関長に採用された真鍋繁次郎さんが、仕事で遅くなって、新築して間もない寄宿合に泊まったところ、夜更けに、女性が我が子を呼ぶような声が聞こえてきました。繁次郎さんは豪胆な人でしたが、このときばかりは、さすがに気色が悪くてたまらなかったと述懐したそうです。

事故が続発して遅れていた工事も大正十一年五月に完成し、六月には盛大な竣工式と開所式を予定していましたが、どうしたことでしょうか、今度はこの工事の総てをつかさどり、開所後は当然「研究所長」となるはずの池田岩治博士が、突然急逝されたのでした。

これには、さすがの学問の府である京大側でも驚いて、「何とか供養をしなければならない」ということになりました。
開所式を延期して六月三日、池田博士の追悼式が挙行されたのに引き続き、白骨が十三体も掘り出された水槽付近に祭壇を設け「無縁仏施餓鬼法要」を行って丁重に葬ったそうです。

そして、一カ月後の大二十一年七月二十八日、荒木京都大学総長を迎えて、盛大な開所式が行われました。この日は水族館の無料公開、相撲大会、餅撒きなどがあり、近郷近在から大勢の人たちが集まって終日賑わいました。それから後は、過去の忌まわしい出来事がまるで嘘のように忘れられてしまったのです。

(注)ここで掘り出された白骨は、安政元年の大地震と津波による被害者や難破船などの漂着死体など。近くは、明治二十二年八月の豪雨による、富田川方面からの漂流死体が、多数ここに流れついて仮埋葬されたままになっていたものだということです。