白浜桟橋から明光本社前までの道路が開通したのは大正十二年四月のことで、この道路が御幸通りと名付けられたのは、ずっと後のことであった。この道路が完成するまでは、東白浜の地蔵さんの前から「白島の峠」を越えて常喜院東側の畦道を通り、現在のNTTの敷地を横切って、井戸畳店の前へ抜ける細い道が、瀬戸への幹線道路であった。

そして、この道の両側は一軒の家もなく、田んぼが広がっているだけだった。中でも高地商店付近から民宿「五幸」までの谷間はひどい湿地で、稲作はできても裏作はできないという沼地が続いていたのである。

今でも、あの付近は湿気が多いので屋内が湿っぼく、ところによっては床下を掘ると、深い沼地のところがあるということである。そんな沼田でも、時期が来れば田植えをしなければならない。ところが、この田には「ひる」が多く、田植えする人達を悩ませていた。

蛭という生き物は人間の肌に吸い付くと、そこから血を吸ってなかなか離れようとしない。そのままにしておくと、だんだん人間の体内へもぐりこんでしまう厄介な寄生虫である。この蛭を退治するために、常喜院登リロの「カタタ衣料品店」の裏に「蛭除け地蔵」という小さな地蔵さんが祀られている。

今でこそ御幸通りは賑やかになっているが、当時は人家もなく東白浜へ行くには蛭除け地蔵のそばを通って雑木林をぬけ、淋しい白島峠を越えねばならなかった。おまけにこの辺りの地名も「伊賀首」という気味の悪いものであった。そのうえ、蛭除け地蔵から白島峠にかけての雑木林には、狐や狸が住んでいて、ここを通る人にいろいろなわるさをしたという。

村人が綱不知から瀬戸まで魚を運んできたら知らぬ間にそれを取られていたとか、誰かが狐に化かされたとかいう噂も絶えなかった。そのうちでも、明治末期の村会議員某氏の話は傑作でした。 あるとき、村会が終わって、彼が瀬戸三丁目の役場から、提灯片手に一杯機嫌の千鳥足で蛭地蔵までやってきたが、どうしたことか、そこから前へは一歩も進めなくなった。これはきっと狐に化かされたに違いない、と思った彼は「俺さまは村会議員だぞ!おまえらに化かされてたまるか――」と大声で虚勢を張っていたが、知らぬ間に寝込んでしまって、通行人に起こされるまで気が付かなかったという話が残っている。

どこでも「化けもの騒動」というのは、これに似たようなものではないだろうか……。