◎ 『白浜エレジー』の由来
戦争はさまざまな悲劇を生みましたが、この物語りもその一つに入るのではないでしょうか――。
鎌谷君子は神戸女学院卒業後、神戸商大卒を出た三井物産のエリート社員と結婚し、赴任する夫とともに満州国の奉天ヘ渡りました。そして戦争が激しくなると共に、彼女の夫もまた現地召集で戦争にかり出され、不幸にも戦死してしまったのです。
終戦後の昭和二十一年六月、君子は悲しみに打ちひしがれながら、母親と二人の子を連れて夫の故郷である上芳養へ引揚げてきました。そして、彼女は知人の世話で上芳養小学校の教員として採用され、教鞭をとることになったのです。そんなとき、この小学校に大野寛という若い教師がいて、彼女に心ひかれた彼は何くれとなく彼女をいたわってやりました。
彼女の方もいつしかそんな彼を憎からず思いはじめ、二人は愛し合うようになってしまったのです。しかし、次第にこの関係が職場でも話題にのぼり、ついには村中で知らぬ者はいないほど噂が広がってしまいました。そしてそれが原因で、とうとう二人は退職しなければならなくなりました。だが、そんな事があってから、君子は次第に彼を遠ざけるようになってしまったのです。
学校を辞めた後、彼女は上芳養村村長の尽力によって、白浜の明光弘済会売店の主任に採用され、ここで働くことになりました。そして瀬戸一丁目の明光寮二階へ移り住み、そこから平草原の売店へ通うという平穏な日が続いていました。
一方、大野は大阪へ出て働いていましたが、どうしても彼女の事が忘れられず、たびたび白浜へやってきては彼女に復縁を迫りました。
けれども、彼女はどうしてもこれを受け入れようしなかったので、思い詰め激昂した彼は、もうこれまでと用意の短刀で彼女に切りつけたのです。――昭和二十四年十月二十四日の夜に起こったこの事件は、静かな瀬戸部落を震撼させる出来事でした。
だが、幸いにも彼女の傷は浅く、二、三ヵ月で全快しましたので、再び明光の売店で働くことになりました。そして一方の大野は、 一度は逃走したものの、しばらくして田辺に住んでいた叔父の坂本氏に連れられ、田辺警察署へ自首しました。
裁判の結果、彼は懲役二年を宣告され素直に刑に服したのです。彼は当時の心境を次のような歌に託しています。
恋すれば身も焼く恋ぞ吐く息は
炎の恋ぞ灼熱の恋
しかし、どうしたことでしょう――。生きる希望を失った彼は出所後間もなく、瀬戸の浜で自らの命を断ち、二十四歳の短い生涯を終えたのです。
これは、あまりにも哀しくはかない悲恋物語でした。その彼の霊を慰めるため、明光バス小竹社長の肝煎りで作られたのが「白浜エレジー」であり「浜千鳥」なのです。「白浜エレジー」は田端義夫の歌で、「浜千鳥」は菅原都々子が歌って、テイチク・レコードから発売されました。
後日譚ですが、君子は美貌の持主でしたし、才媛でもあったので、その後アメリカ生まれの二世実業家に見初められ求婚されました。彼女の方も、日本にいては世間の噂が煩わしかったに違いありません。「二人の娘も一緒なら」という条件で再婚に踏み切り、渡米することになりました。
それから何年か経って、白浜のキリスト教会宣教師リンドバークさんが、コロラド州デンバーを訪ねたとき彼女に会ったそうです。「みんな幸せそうに暮らしていましたよ」と話してくれました。二人の娘さんも成長し、それぞれ大学と高校に通っているということです。
◎『白浜エレジー』 《テイチク・レコード》
作詞 津本 孝一
歌 田端 義夫
一、流れ黒潮 湯けむりさへも
情け一筋 男の心
瀬戸のタベを 茜にそめて
散らす未練の片しぶき
二、君は浜木綿 やさしき花よ
咲くは無理かや散らすが無理か
想いはるかな 異国に居れば
なまじ苦労を知らぬもの
三、強く生きるも 幼子ゆえよ
かわす涙の 浜ちどり
人に悲しい平草原に
宿す思いを 君しるや
◎『浜千鳥』 《テイチク・レコード》
作詞 沖本 孝二
歌 菅原都々子
一、波の自良の浜千鳥
濡れてなぜなく 夕暮れは
哀しき恋の思い出は
夢もほのかな 湯の煙り
二、更けて漁り火またたけば
しのぶ契りの 瀬戸の浦
えにしの綱を誰ゆえに
解いて流した涙船
三、運命はかなき恋ながら
人の情けの いとしさに
平草原に香り咲く
浜木綿の花 いつまでも