「猿乗せて行くや熊野の汽車の旅」と笑われた紀州路にも、ようやく新しい時代の息吹が感じられるようになってきた。

大正十三年には東和歌山から箕島まで鉄道が開通し、昭和四年には更に紀勢線は御坊まで南下したので、田辺・白浜方面への遊覧客も徐々にふえつつあった。ところが、この南紀地方は天下に冠たる景勝と豊富な温泉に恵まれながら、これという民謡がなかった。

宴席に呼ばれた芸者衆にしても、串本節ひとつではお客へのサービスとしてもの足らず、新しい時代の「新しい歌」の出現が期待されていた。そんなとき、昭和六年五月、田辺の紀伊新報社(小山邦松社長)が「田辺新民謡」と「白浜小唄」を次の要領で公募することになった。

◇題材、「田辺新民謡」「白浜小唄」
◇趣旨、紀勢線の開通を間近に迎えて、この南紀の景勝を満天下に紹介するため上記の歌を募集する。
入選歌はコロンビア・レコードに吹き込み全国に紹介するものである。
◇選者、日本コロンビア蓄音機文芸部
◇区分、歌詞の長短、接続は作者の随意
◇締切、昭和六年九月十日
◇宛先、田辺町、紀伊新報社文芸部
◇賞、 一等、コロンビア蓄音機A号(時価四十五円)
    二等、オリエント・レコード十枚
    三等、オリエント・レコード五枚

これに応募した作品の数は「田辺新民謡」九十通、「白浜小唄」百二十通に達した。そして九月二十五日、コロンビア関西文芸部次長の松村昇三、同社の専属作曲家の近藤一九二・橋本宇平次、そして白浜土地KKの湯川昇の四氏によって厳選された結果

一等「白浜小唄」愛郷生、二等「田辺新民謡」田辺町、岡本玲泉

三等「田辺新民謡」田辺町、樫山三右衛門の三氏が入選された。ところで、愛郷生とは誰のペンネームだろうかと話題を呼んだが、それは田辺中学の国語の先生、竹中一雄氏であることがすぐに分かった。この二曲は、大阪市の堀江席にいた美声の芸者「石玉」さんによってレコードに吹き込まれ、日本全国に「白浜小唄」が普及したのである。

竹中先生は大正十四年より昭和十八年までの長きにわたり、田辺中学で教鞭をとられ、その後海草中学に転任されたが、高齢ながら今なお、ご健在である。


一、明けりゃ湯けむり かすみにとけて、

    とろり夢路にとろとろ誘ふ

  ほんに湯の里 情けのいで湯

    露をふくんだ花が咲く


二、誰を待つやら 浜木綿のかげこ

    くるり絵日傘くるくる廻る

  ほんに湯の里 白良の浜は

    浮世はなれた風が吹く


三、瀬戸の岬は 夕やけ小やけ

    チラリ漁火ゆらゆらゆれる

  ほんに湯の里 白良の浜は

    昔忘れぬ波の音


四、ふけてなつかし 白良の浜に

    ほろり千鳥のホロホロ鳴けば

  ほんに湯の里 情けのいで湯

    思い出すよな月が出る


◎『新白浜小唄』 

     作詞 竹中 一雄 (昭和十四年八月)


一、空はさみどり心も晴れて

  鴎うきうき飛んで来る

  音労しらずの浜ゆうの陰に

  花か銀砂の湯が招く

  アレ 湯が招く


二、波は千畳三段壁に

  かけたタベの虹の橋

  渡りゃ鉛山黄金の色に

  星か いで湯の灯が招く

  アレ 湯が招く


この歌詞は明光バスKKの「遊覧バス名所案内」の要所要所に入れるべく、竹中一雄先生が作詞されたものです。

先生が小竹社長に案内されて、崎の湯・千畳敷・三段壁・平草原・大浦と観光コース予定地を見て回られ、遊覧客がすぐに覚えて帰れるように、七、五調に作詞されたらしいのですが、出来栄えがあまり思わしくなく、歌詞も一節か二節しか作れなかったと、先生は往時を述懐していられます。


◎『白浜小唄』

       作詞 西条 八十  (昭和五年 夏)


 つらい浮世も

 わしゃ白浜の

 湯気の中から仰ぐ月