大正末期から始まった白浜温泉の躍進は眼をみはるものがありました。そこへ、昭和四年六月一日に天皇陛下の行幸を仰ぎ、その光栄に瀬戸鉛山村は沸きかえりました。そして、これを契機に、毎年六月一日を行幸記念日として祝うことになったのです。

昭和九年は行幸五周年記念日にあたるので盛大にこれを祝い、翌日の六月二日を第一回温泉祭りとして、二日間祝典行事を挙行することに決まりました。このとき紀伊新報社(小山邦松社長)は、この行事に協賛するため「新白浜音頭」を公募しました。


(公募要領)

一、新しい白浜温泉の躍進にふさわしい歌詞であること

二、賞金 一等 五〇円、二等 一〇円、三等 五円

三、選者 西条八十先生

四、締切 昭和九年五月二十五日

以上の企画に応募した作品は百五十三通にのぼり、その中から厳選されて一等に入選したのは、湯浅町の船戸彰氏。二等入選者は、日辺町新屋敷町の都築武陽氏でした。 一等の栄誉を射止めた「船戸彰」というのは、実はぺんネームで、本名、壇上明宏という無名の新人で田辺町壇上楽器店の次男坊でした。彼は田辺中学を出て、同志社大学を卒業してからは、詩や歌を勉強していたということです。

選者の西条八十先生は選後評で

「さすがは詩の国、紀州――。応募歌詞は玄人はだしの優れた作品が多かった。選考しているうちにも、曽遊の南紀白浜温泉の情緒、風景がありありと目に浮かぶような気がした。…… 一等入選の歌詞は、どこへ出しても恥ずかしくない傑作で、新鮮さがあり、音頭としてはもってこいです」と絶賛されました。




① 予定していた六月一日の第五回行幸記念日と、六月二日の温泉祭は、東郷平八郎元帥が五月三十日に死去され、六月五日に国葬が行われることになったので、謹慎の意を表して六月十日まで延期されました。そして、十日、十一日に行幸記念日と温泉祭が盛大に挙行されたのです。

② その後《白浜温泉音頭》は、作由・中山晋平、歌・小唄勝太郎、で売り出され、白浜温泉の代表的な歌になりました。

③ 昭和四十六年《紀州白浜音頭》と改題され、歌手は古都清乃、EP盤でビクター・レコードから再び売り出されました。

④ この歌の作詞者、壇上明宏さんは県内の名所旧跡を巡って、数々の地方民謡も作詞しました。《椿温泉小唄》も彼の作品です。

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    『白浜温泉音頭』

船戸 彰 作詞


一、ハァー万葉で白良のいで湯の煙リ ヨイヤサ

    匂う浜木綿 エエ星明かり

  湯崎恋しや五位鷺さえも チョイチョイ

    灯し目あてに通うてくる

  さあさ、踊ろうよ白浜音頭

    ショコショコショコ、ヤッサイサイ


ニ、ハァーつつじ山からあの瀬戸崎ヘ ヨイヤサ

    誰が架けたか エエ虹の橋

  思う心を燕にのせて チョイチョイ

    ほんにあの橋渡りたや

    (以下囃しは同文)


三、ハァー麦の穂かげに飛ぶつばくらめ ヨイヤサ

    乙女心は エエ花つつじ

  恋の絵日傘砂山スキー チョイチョイ

    海じゃ鴎が旗を振る


四、ハァーゴルフしましょかポートに乗ろか ヨイヤサ

    心ほがらか エエ躍る胸

  泳ぎ疲れて銀砂に眠りゃ チョイチョイ

    夢を彩るさくら貝


五、ハァー湯もや立つならほのぼの立ちゃれ ヨイヤサ

    月に墨絵の エエ円月島

  君を松原想いは燃えて チョイチョイ

    あがる花火も空焦がす


六、ハァー雉子巣ごもる野鳩もこもる ヨイヤサ

    むかし御幸の エエ御船山

  熊野権現玉座の石に チョイチョイ

    今日も祈れば身がしまる


七、ハァー湯もやほのぼの情けに解けて ヨイヤサ

    揺れるかがり火 エエ気もそぞろ

  霧にまかれて岩根の松に チョイチョイ

    月の虹傘鳴く千鳥


八、ハァー湯崎七湯はあの恋ごころ ヨイヤサ

    湯花咲くとは エエしおらしや

  車とどめて御幸の芝に チョイチョイ

    便りもてくる海つばめ


九、ハァー見やれ三段壁は夕焼け小やけ ヨイヤサ

    波をくぐるは エエ鵜の鳥か

  誰が刻んだ千畳敷に チョイチョイ

    仇な女の寝姿を


十、ハァー鰹うず巻く黒潮こえて コイヤサ

    舵を枕の エエ漁り舟

  夢は瀬戸崎白浜かけて チョイチョイ

    恋しあの娘の片えくぼ
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