白浜第一小学校の前身は、瀬戸尋常高等小学校と呼ばれていました。開校したのは明治七年で、それから昭和四年までの五十五年間は校歌がなかったのです。明治。大正という時代はそれでも不自由を感じなかった、おおらかな時代でした。

しかし、校歌の代わりという訳でもないのでしょうが、子供達の間でこんな歌がよく歌われていました。

《瀬戸健児男の歌》

一、瀬戸健男子の意気いかに

白浜意気よく立ちこめて

冬の嵐も夏の日も

たゆまず練りにし肉の魂

(二番以下の歌詞不明)

そして昭和四年三月には天皇陛下の行幸も本決まりとなり、四月には松本安助校長と田中喜太郎先生が赴任して来ました。
松本校長はそれまで湯崎小学校と南富田小学校の校長を歴任してきた人であり、田中先生は海草中学校から和歌山師範学校第二部を卒業した新人でした。

その田中先生からよく教えられたのが次の歌です。

  わが大君 わが大君 尊くも今島のあたり

  立たせ給へり われら御民 心曜る

  大御代の今日の恵みや

この歌の題名も、誰がいつ作詞・作由したのかも判っていませんが、行幸で沸いた当時の歌であったことは確かです。そして、行幸一周年がやって来たとき、村でも学校でも色々と記念の行事が挙行されました。

学校ではこの機会に校歌の制定をしたいということになり、校長は唱歌担任の田中先生に作詞・作曲を依頼しました。

田中先生は、自分の母校の海草中学に、古河順という国語・漢文担当の作詞のうまい先生が居るのを知っていたので、その先生に作詞を頼むことにしました。その結果出来上がったのが『ゆかりは深し御舟山』という校歌です。そのお礼には、田中先生が瀬戸浦で獲れた伊勢海老や鮑を持って、古河先生のところへお礼に行ってきたということでした。

作由はどのような「つて」をたよって依頼したのか知りませんが、有名な「大正天皇御大葬」を作由した杉江 秀という人です。


瀬戸尋常高等小学校校歌  (昭和五年六月)

 作詞 古河 順

 作曲 杉江 秀


一、ゆかりは深し御船山

  桔梗ケ原の浜木綿の

  操を高くあらわして

  とわに御幸を偲ぶてふ

  栄ある里の学びやよ


二、かおりは高し白良浜

  白き真砂路走り湯の

  清き出湯に浴して

  心も身をも育つてふ

  幸ある里の学びやよ


三、獲物は多し瀬戸の海

  円月島や海人の

  さし出る朝日照りうけて

  日毎の業を励みゆく

  幸ある里の学びやよ


そして月日は流れて大東亜戦争の後、歌詞も改められて次のようになっています。


『新校歌』

一、ゆかりは深し御船山

  桔梗ケ原の浜木綿の

  操を高くあらわして

  とわに御幸をしのび行く

  栄ある里の学びやよ


二、生命は若し瀬戸の海

  円月島やあま人の

  さし出る朝日照りうけて

  日毎の業を励みゆく

  幸ある里の学びやよ


三、獲物は多し瀬戸の海

  円月島や海人の

  さし出る朝日照りうけて

  日毎の業を励みゆく

  幸ある里の学びやよ


(注) この校歌、新校歌制定について今少しエピソードなどあれば教えて戴きたいと思います。
shira22